FC2ブログ

八坂神社の夏越祭

今日(7月31日)は、ひと月続いた祇園祭の最後を飾る疫(えき)神社の夏越(なごし)祭。

疫神社は、石段のある西楼門をくぐってすぐ正面に見える小さな神社。

この神社は「蘇民将来」を祭神とする(蘇民将来については、7月25日の本ブログ記事を参照)。

午前10時から、この神社の前で「夏越祭」が厳かに執行される。

30分ほど神主による祝詞奏上のあと、招待客や一般参拝者が鳥居の下にしつらえた径2mほどの茅(チガヤ)の輪をくぐり抜け、無病息災を祈り、祓いを受ける。

一般参拝者は、100mほどの長蛇の列をつくり、参拝の順番を待つ。

参拝者は、鳥居前の参道の脇に立て懸けられた茅(チガヤ)を抜いて家に持ち帰り、入り口にかざして1年間の無病息災の標とする。



▼八坂神社表参道の朱塗りの楼門。柱に疫神社夏越祭を掲示。

八坂神社は東山の麓にあって社殿は南面し、南から大鳥居、楼門、舞殿、本殿が一直線上に並ぶ。四条通りに面した朱塗りの西楼門は脇門として造られたのが、いつしか表門のようにみられてしまった。

DSC_0038_convert_20100731215548.jpg

DSC_0036_convert_20100731143133.jpg


▼式の開始前、疫神社前に向かう礼装の神職連。

DSC_0002_convert_20100731213432.jpg



▼疫神社。八坂神社の境内摂社のひとつ。緑の木陰のなかにひっそりたたずむように立つ。石鳥居の注連縄の下に大きな「茅輪」が見える。

DSC_0048_convert_20100731143217.jpg


▼茅(チガヤ)。参拝者が茅を抜いている。

DSC_0049_convert_20100731143248.jpg


▼参拝を待つ参列者。この後ろにおそろしい長蛇の列が!。

DSC_0050_convert_20100731172720.jpg


▼神職もチガヤを持ち帰り

DSC_2002_convert_20100731143517.jpg


▼一抱えものチガヤ(少し欲張り過ぎでは)を手にして「おみくじ」引き

DSC_2006_convert_20100731143557.jpg



▼ご利益を願って買った「蘇民将来お守り」(1個1,500円。高いッ!)。 

八角柱の各面に右回りに「蘇民将来之子孫也」の文字が1字ずつ書かれている。「蘇」の字の下に今年の干支(えと)の「寅」の字が。

このお守り、なぜ八角柱の形をとるのか?。こりゃ、難問だ。道教の宇宙観との関連も考えられそうであるが、その深遠な思想はここで説明するには、いささか難解すぎる(いかにしても知りたい人は講義料をもらわんことには…。笑)。

DSC_0057_convert_20100731155527.jpg




祇園二軒茶屋(中村楼)

400年の歴史を誇る京都名うての料亭。八坂神社の表参道大鳥居をくぐった右手(東側)にある。

八坂神社の門前茶屋として室町末期に発し、江戸末期には京都屈指の料理茶屋となる。 とくに田楽豆腐が有名。

「四条の橋から灯が見えるアレは円山の灯か二軒茶屋の灯か」と、小唄にも歌われた。

明治の文明開化期には宮家、政財界の要人、芸術家、文人らが集ったところとして知られる。尾形光琳の襖絵や著名人の書画がある。

カメラワーキングで額から滴る汗を鎮めるため、「二軒茶屋」に飛び込み暫し涼を。古寂びた店内の造りが、落ち着いた雰囲気をあたえる。

扇風機の前に腰をおろして首を回すと、切り石の井戸側をもつ立派な井戸が。天井から滑車が吊り下げられている。



▼祇園二軒茶屋の店構え。右手奥に「中村楼」の入り口が見える。

DSC_0046_convert_20100731143701.jpg



▼二軒茶屋の入り口を入った左手の壁際にある井戸と、その脇に置かれた2株の生け花がふと目にとまる。

大きな黄色い花をつけた菊にも似た花が生けてある。花名が気になって店の女将さんに訊ねると、「オオハンゴウソウ」と教えてくれた。とんと聞き慣れん名だ。

「どんな漢字を書くんですか」と質すと、「難しい字で書けないんです」という(アチャ)。
すると、レジの後ろから『季節の野草・山草』と題した図鑑(日本文芸社刊)を取り出し、該当ページをめくってくれた。

和名は「大反魂草」と書く。原産地は北アフリカ、日本には関東以北に分布するとある。

花は、近くに住んでる花好きの方が裏山に入っては季節の花を摘んで、店に持って来てくれるという。花の名も教えてくれるという。なんとも風流な方だわい。

DSC_0040_convert_20100731143741.jpg



▼オオハンゴンソウ(大反魂草)の花

火鉢の中に据えられた鉄瓶に生けてある。そのアイデアが面白い。

DSC_0041_convert_20100731143814.jpg


▼オオハンゴンソウのアップ

まっすぐに伸びた細い茎の先端に黄色い花弁がつく。葉先は途中から三つに分かれている。

DSC_0045_convert_20100731144034.jpg


かくして、今年の祇園祭は無事終了となった。神職の皆さん、酷暑のもとでの例祭の遂行、本当にお疲れ様でした。

また来年を楽しみにしてます。ただ、それまで生き永らえられるか……。

スポンサーサイト



テーマ : 日々のつれづれ
ジャンル : 日記

イヌの話し(エピソード1)

前回は、ネコの話。今回はその姉妹編としてイヌの話。

イヌとヒトとの共生の歴史は実に長い。

食べては一日の大半を寝て暮らす(羨望の的?)だけのネコと違って、イヌは猟犬・番犬・食用犬として人類の生活に大きく貢献した。その貢献度は、ネコの比ではない。

むろん、ネズミを捕食するネコもかつてはいた(庵主の幼少のみぎり、田舎で実見!)。これはネコの名誉(?)のためにも書いとかんと。

いまどきのネコは、ネズミを見てスタコラ逃げ出すのが関の山。じつに嘆かわしい。ネコの本分を忘れとる(いまどきのネコには一分の魂も残ってないんか!)。

話をイヌにもどそう。


イヌの祖先は、オオカミ説が有力だ。

そのオオカミ、更新世の終わり頃、日本列島にもいたことが化石から知られる。

また、オオカミにまつわる説話や地名が日本各地に残ってることから、歴史時代になってからも広範囲に棲息していたことがうかがえる。しかし、明治頃に紀伊半島の大台ケ原で捕獲された記録を最後に姿を消す(絶滅)。

日本人の祖先が、そのオオカミを飼いならして家イヌにしたのではなさそうだ。

縄文時代の遺跡からイヌの骨が少なからず報告されている。ヒトに食われたイヌもあるが、丁重に埋葬されたイヌの全身骨格も出土しとる。これなんぞ、家犬(飼いイヌ)の動かぬ証拠だ!!。

近年のDNA分析によれば、縄文犬は朝鮮半島南端の珍島犬(小型犬)に近いとされる。とすれば、縄文犬は半島から持ち込まれた可能性が俄然高まってくる。

それでは、弥生時代のイヌはどうか?

興味深いのは、玄界灘に浮かぶ壱岐島の原の辻遺跡(長崎県)からのイヌの骨の多量出土だ。その数は尋常でない。この遺跡は近年発掘調査が進められ、有名な『魏志』倭人伝にも出てくる壱岐国の国邑に擬されている。立派な博物館も今年の5月にオープンしたとか。

原の辻遺跡から出土したイヌの骨はバラバラで、これはヒトの餌食にされた証拠だ(イヌの愛玩者の方、卒倒しないで、これ2000年前の話し)。骨についとるカッティング・マーク(刃物による解体痕)が強力に裏付ける。

ここの住民は常日頃、あるいは儀式のとき、イヌを食していたことは間違いない。

『魏志』には、朝鮮半島の南端に「狗邪(くや)韓国」があったことが記されている。この「狗」はイヌのことで、中国人が漢字表記するときによく使う字だ。この地では、古来、イヌの肉を愛好したんではないか。『魏志』の撰者である陳寿は、それをまた聞きし「狗邪」という漢字を充てたのだろう。


「狗邪韓国」はのちの「加耶(加羅)国」が存在したところだ。魏の使いが倭(日本の古称)を訪れたとき、必ず通過するところ。のちの金海国の中心地で、洛東江の河口デルタ近くに位置する。近年、遺跡が多数発掘されている。

壱岐国は、対馬を介して、朝鮮半島の南端にあった「狗邪韓国」に近い。

そこのイヌ食の風習が壱岐国に伝わったのか、この国の住民がもともと半島からやってきた渡来人たちであったのかのいずれかであろう。九州本土の弥生時代の遺跡からイヌの骨がほとんど出土しない事実が、この推測を傍証しはしないだろうか。

今日はここまで。続きはエピソード2でどうぞ。



▼韓国の国花「ムクゲ」。清楚かつ可憐な花だ。近所の庭先で見かけたので思わずショット。

DSC_1999_convert_20100804232840.jpg



テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

ネコ、ヒトに遭う(Ver.3)

梅雨明け後10日ばかり続いた猛暑も一息。

昨夕からのお湿り程度の雨が、今朝になって音を立てて降ってきた。庭の草花にとっては慈雨というべきか。



今回はノラネコがヒロイン!?。

だいぶ前から、わが庵にノラが一匹出没、徘徊するようになった。

腹をすかしている様子を見かね、一度残飯の魚をやったら、それからというもの毎日顔を出すようになった(ヒェー)。

草庵の庭で、餌の待機。いつしか庭に獣道(けものみち)ならず、猫道ができとる。

(クリックすると画像が拡大)
DSC_1989_convert_20100729202445.jpg 目と目が合わんようにすまし顔。


DSC_1990_convert_20100729074941.jpg おそるおそる顔を上げ、上目づかいでカメラを。


一度味をしめたら、またやってくるのはネコの習性(こんなの人間にもいるな! 笑)。

これは、もともとネコのDNAに組み込まれたものか?、あるいは突然変異の産物なのか?。

野生のネコ(ヤマネコ)がヒトに飼いならされるようになったきっかけも、これと似たようなもんだろう。

DSC_1993_convert_20100729202648.jpg ノラの不敵な面構え





以下、わが庵に出没するノラ猫の観察から、家ネコへの進化を考えることに。

野性のネコ(ヤマネコ)がどこで最初に飼いならされたのか、よくわかっとらん。エジプトの墓の壁画にスリムな体型のネコが描かれているのは有名。これは家ネコ(飼い馴らされたネコ)の最古の描写だろう。

西ヨーロッパの後期旧石器時代(3.5~1万年前)の壁画にはさまざまな動物が描かれているが、ヤマネコの姿は見当たらん。

どうも家ネコは、ヒトが定住生活をおくるようになった新石器時代以降に出現したもんでは……。

しかし、オオヤマネコの骨は縄文草創期の遺跡から出土しているが、縄文時代の遺跡から家ネコの骨が出土した話は、とんと聞かん。むろん、野性のネコと飼いネコを骨の形態から区別すんのは難儀だ。

地質時代の更新世(250~1万年前)に、耳の先に剛毛を生やしたヤマネコは旧世界(ユーラシア大陸・アフリカ大陸)の各地に棲息していたようだが、もともと臆病なうえ警戒心が強く、ヒトのいる近くには近寄らんかったんだろう。

夜目が利くというネコの特性も、もともとこの動物が夜行性だったことを物語るのでは。

最初にヒトに接したヤマネコは、腹をすかし警戒心が薄れ、餌を求めてヒトに近づいてきたにちがいない(草庵のノラのように)。

これに味をしめたネコは野性の生き方を捨て、ヒトと共生することで恒常的に餌を確保し、野性の生き方とは決別し、やがてペットとして世界各地で繁殖するようになったんでは。


ネコ好きの満Q先生、この仮説、どうでっしゃろ(笑)。大筋としてはあたっとると思うけど。



*タイトルは、有名な動物行動学者K.ローレンツの『人、イヌにあう』をもじったもの。




テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

素戔鳴尊と除疫信仰

祇園祭の山鉾巡行、花傘巡行も終わったことでもあるし、八坂神社の祭神の由来ともからめて祇園信仰なるものの史的考察にトライ(汗、汗)。

祇園会が御霊(ごりょう)信仰と結びつく経緯については、諸説ある。「八坂神社」の社名は明治元年(1868)以降のもので、古くは「祇園感神院」、「祇園社」、「祇園天神」、「祇園牛頭(ごず)天王社」とよばれた。

八坂神社の祭神は素戔鳴尊(スサノオノミコト)、櫛稲田比売命(クシイナダヒメノミコト)、八柱御子神(ヤハシラノミコノカミ)からなる。

記紀の日本神話によれば、素戔鳴尊は伊奘諾尊(イザナギノミコト)の子とされ、天照大神(アマテラスオオミカミ)の弟。暴虐非道の神として描かれる。
天照大神の「天の岩戸隠れ」を引き起こし、高天原(タカマガハラ)から追放され、出雲の国で八岐大蛇(ヤマタノオロチ)への人身御供にされかけていた櫛稲田姫を八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治して救い、その体内から天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)を得、天照大神に献上する。さらに新羅の国に渡り、船材の樹を持ちかえり、植林(木国=紀伊国の語源となる)を広めたという。


それでは、なぜ素戔鳴尊が疫病払い(除疫)の神として八坂神社に祀られるようになったのか。

これを解き明かすうえで、『釈日本紀』巻七(13世紀末~14世紀初頭成立)に引く『備後国風土記』逸文に、「疫隅(えのくま)の国つ社」(現広島県福山市疫隈神社)と題して興味深い記事がある。以下に要約する。

 昔、北の海に住んでいた武塔神(むとうのかみ)が、南海の女子を訪ねようと旅に出たところ、日が暮れてしまい一夜の宿をもとめた。そこには二人の兄弟の家があって、兄の蘇民将来は貧窮し、弟の家は富裕で家や倉100棟を有していた。富裕の弟は惜しんで武塔神に宿を貸さなかったが、貧窮の兄の蘇民将来は粟柄の座を供し、粟飯などをつくって懇切に饗応した。
 年を経て、武塔神は八柱の子を伴って再びやって来て、蘇民将来に「かつて食物をいただいたお礼をしたいが、汝の子孫は家にいるか?」と訊ねると、蘇民将来は「自分の娘と妻がいます」と応えた。
すると、武塔神は「茅(チガヤ)の輪を腰の上に着けさせよ」とのたまった。詔のままに茅の輪を着けさせると、その夜のうちに蘇民の娘ひとりを残し、(村人を)悉く滅ぼしてしまった。
 武塔神がのたまうには、「吾は速須佐雄の神なり。後世に疫気(えやみ)あらば、汝は蘇民将来の子孫と名乗って、茅の輪を腰に着けたものは(疫病から)免れるだろう」と。


ここに現われる武塔神とはいったい何者か?

『神道集』(14世紀頃成立か)に引く「仏説武答天神王秘密心点如意蔵王陀羅尼経」によれば、天王には十種の変身があり、一は武答天神王、二は牛頭天王、……十は疫病神王とある。

除疫神の牛頭天王(祇園天神とも)は、京都祇園社(八坂神社)の祭神として知られ、もともとはインド祇園精舎の守護神とされ、素戔鳴尊は牛頭天王の垂迹(日本固有の神は本地仏が姿を変えてあらわれたとする考え=本地垂迹説)という神仏習合思想、信仰が生まれた。なお牛頭天王は頭上に牛の頭をもつ憤怒相であらわされる。

仏教の牛頭天王信仰が流布するなかで、素戔鳴尊は牛頭天王が姿を変えて本邦に現われた本地仏として尊崇されたと考えるのが自然であろう。祭神の牛頭天王を素戔鳴尊に代えたのは、素戔鳴尊の災厄をもたらす凶暴な性格とも重なり、祭神の在来神(日本固有の神々、あるいは歴史上の人物)への転換が朝廷をあげて促進されたのであろう。これは、平安時代前期に胚胎する御霊信仰、天神信仰の神々(祟る神)がすべて日本の歴史上の人物であることと無関係ではないであろう。

『備後国風土記』逸文に引く武塔神の性格は、異国の神(外来神)として疫病を自在に操る恐ろしい神(疫病神)としてのイメージが強い。これは、疫病というものが外から入ってくるものという観念が背景にあり、『備後国風土記』逸文の記事は、こうした考えが日本各地に流布していたことをものがたるものであろう。

また八坂神社が祀る三祭神のひとつ八柱御子神は、武塔神の「八柱の子」の言い換えである。

各国の『風土記』は、8世紀の半ば頃までには成立したものであるが、『備後国風土記』逸文の記事もそうであれば、武塔神=牛頭天王という仏教思想が奈良時代に流布していた証拠になる。それに素戔鳴尊が付会され、普及するのは、常識的に見て御霊信仰が高まった平安時代前期(10世紀)以降のことであろう。

しかしながら、『備後国風土記』逸文の記事には武塔神みずから、「吾は速須佐の雄の神なり」と正体を告げる。つまり武塔神=牛頭天王=素戔鳴尊という関係が成立していたことになる。


それにしても、日本の宗教思想史上、『備後国風土記』逸文の記事は神仏習合の出現時期をめぐって大きな問題を投げかける。




7月31日(旧暦の六月晦日)は、1か月続いた祇園祭を締めくくる疫神社の「夏越(なごし)祭」。悪疫が流行する夏場に入る前に除疫を神に祈る祭礼として、古くからおこなわれてきたのであろう。
参詣者は、鳥居に設けられた大茅輪をくぐって厄気を払い、「蘇民将来之子孫也」という護符を授かる。


蜈ォ蝮ら・樒、セ蜴・勁邊ス_convert_20100725234659 八坂神社厄除け粽(山鉾巡行のとき入手)

蘇民将来護符 「蘇民将来子孫也」の和紙護符。 粽の一つに小撚りで結わえてある。


この夏場の除疫、無病息災の願をかけるため、庵主も重い脚を運ぶとするか。


洛倭亭 庵主

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

祇園祭花傘巡行

24日の午前は祇園祭の「花傘巡行」、夜は還幸祭(四条御旅所から3基の神輿が街中を巡行しながら八坂神社にもどる)。 

山鉾巡行に次ぐ大きなページェントであるが、さほど有名でない。 かくいう庵主も初めての腰を据えての見物。

山鉾巡行は豪華絢爛な山と鉾が主役だが、こっちはあくまでも仮装した人物が主役のようだ。



午前10時スタートとはいえ、9時を回るころには真夏の太陽がジリジリ。 早くも気温は30℃をオーバー。

9時過ぎ、石段下に到着すると、既に70名ほどの気の早い見物客が石段に屯集!!。 

それを脇目に八坂神社の境内に踏み入ると、絵馬殿の周囲や円山公園の参道に巡行に加わる人たちが三々五々集まってきた。

9時半、石段下の四条通り付近で撮影位置を物色。

先ずは、カメラワーキングに好適なポジション探しだ。 太陽の方向と撮影位置が重要なポイント。

祇園石段の朱塗りの西門楼を背景に撮影するには、四条通りに面した側しかない。 ここは午前中逆光の撮影位置になり、できれば回避したいところであるが……。 お天道さんが中天に近づいてくれるのを、ひたすら期待。

陽差しが容赦なく注ぐアーケードの下で滝のようにしたたる汗をぬぐいながら、ひたすら待つこと30分。 横で、デジカメを手にした50歳がらみの中国人の婦人二人連れがよくしゃべること。 流暢な普通語が耳に飛び込んでくる。

次第に見物人の数も増え、左右の一眼レフカメラを抱えた見物人と身が接触してきた(カメラワーキングには実にヤバイ)。

スタート数分前、円山公園の参道に待機している行列の先頭から、少女たちの発する黄色い囃子声とともに景気づける太鼓の音が聞こえてきた。



▼先祓(さきばらい)は、水色の袴、白の狩衣、黒の烏帽子姿で白い幣束を手にした神職。

DSC_1838_convert_20100725102421.jpg



▼先頭は、手押し車に乗り、太鼓・小太鼓を打ち鳴らす子供たちの黄色い声の囃子で景気づけだ。 その後ろに子供御輿3台が続く。

DSC_0015_convert_20100724180001.jpg


▼金色の子供御輿。下に車が2個取りつけられ、子供たちが押していく。

DSC_0017_convert_20100724180044.jpg

DSC_1846_convert_20100725113536.jpg


▼神饌行列。これぞ花傘巡行の隠れた花。 2列になってしずしずと進む。

DSC_0024_convert_20100724180112.jpg



▼美女ぞろいの巫女たち。色とりどりの菊の造花をあしらった笠の紐を顎下で結ぶ。

DSC_1853_convert_20100724202142.jpg



▼朱袴姿の巫女に後続する、菊をあしらった白の笠に薄水色の着物姿の女性の一団。

DSC_0025_convert_20100724182041.jpg

DSC_1855_convert_20100724202213.jpg


▼祇園太鼓。 バチを持つお姐さんたちの赤の半被、赤いねじり鉢巻き姿が粋だ。

DSC_1858_convert_20100724202246.jpg


▼花傘の後ろに金獅子、銀獅子が続く。 中の二人は暑くて堪らんじゃろ。 熱中症が心配だな。

DSC_0026_convert_20100724180141.jpg

DSC_0027_convert_20100725104418.jpg



▼徒歩(かち)の幌武者に続く騎乗の高士。 背中に横棒で吊り下げた大きな袖が奇抜。こんなの初めて見るな。

DSC_0029_convert_20100725104443.jpg




▼児武者。 雉の尾羽根の飾りがついた粋な菅笠に萌黄の狩衣姿での騎乗姿が凛々しい。

DSC_1862_convert_20100724180917.jpg



▼児武者。 花篭を背負ったところがまた風流。 脇に付き添うのは母親か。

DSC_1865_convert_20100724180946.jpg



▼裃(かみしも)姿の供御人の一団。

DSC_0030_convert_20100724180300.jpg



▼宮川町(祇園)お茶屋組合花傘車。 屋根付きの車とは、こりゃ、楽でんな。日焼けしたら商売に差し支えるか(ハハ)。いずれも美形揃い。さては組合でセレクトしてきたか。

DSC_0044_convert_20100724194000.jpg


▼宮川町の白粉の化粧・着物で統一した舞妓・芸妓はんたち。 宮川町組合に対抗してか、こっちも別嬪さんばかり。 美の競演、実にいいですね。 これぞ客・観光客集めの極意!!!。

DSC_1887_convert_20100724194921.jpg



▼祇園甲部お茶屋組合花傘車。 曳き手は涼しげな図柄の浴衣姿。

DSC_0046_convert_20100724194035.jpg



▼祇園甲部の舞妓・芸妓はんたち。 お白粉と口紅で厚化粧し、縁が波打つ菅笠が粋だ。 物見遊山の格好?

DSC_1891_convert_20100724181050.jpg



▼鷺踊大傘に先導された鷺踊を演じる子供たち。 両手を高く掲げると、袖に縫い付けた両翼の白い羽根がひろがる。

DSC_0049_convert_20100724180345.jpg



▼傘を肩にもたせ、白粉に口紅をつけた涼やかな着物をまとった瓜実顔の少女。キャッワーイ。

DSC_1897_convert_20100724181158.jpg



▼市役所、四条御旅所を巡り、2時間後に八坂神社へ帰還。 四条花見小路付近。 巡行中、交通規制しないため、信号で長蛇の列が分断される。 炎天下、信号で待たされる巡行者たちの消耗はいかがばかりか。 警察は通過時間中(15~20分)だけでも交通規制してやれんのかい。

DSC_1910_convert_20100724181300.jpg



▼炎天下で絶えずバチを振る子供たちの顔にも疲労の色が…。

DSC_1921_convert_20100724181420.jpg



▼日焼けした巫女たちも疲労困憊の顔色なれど、一糸乱れず帰還。

DSC_1934_convert_20100724181459.jpg



▼八坂神社御本殿前で巡行の無事終了を報告。

DSC_0058_convert_20100724180422.jpg


▼神前報告が終わり退出する巫女に「お疲れさん」とねぎらうと、すかさず、にっこり微笑んで「ありがとうございます」の返事。

DSC_0061_convert_20100724180632.jpg



▼児武者も帰還の神前報告。

DSC_0065_convert_20100724180836.jpg



▼神前報告の後に催される「舞踊奉納」はこの舞殿でおこなわれる。

DSC_0075_convert_20100724180459.jpg



▼一対の金獅子・銀獅子による「獅子舞い」の奉納。振付がユーモラスで面白い。

DSC_1981_convert_20100725113228.jpg



▼本殿の脇で見かけた舞子・芸妓はん。 手前の芸妓はんは、背筋が伸びた姿勢、着こなしが垢抜けしとる。気品が感じ取れる。 ときに着物を着たがる教え子たちよ、範にすべし。

DSC_1975_convert_20100724181535.jpg


かくて、今年の祇園会の一大ページェント”花傘巡行”、無事了えリ。 

ライブで見れなかったひとは、来年を期すことじゃな。 K瀬さん、来年是非ご実見あれかし。

洛倭亭 庵主

テーマ : 今日の出来事
ジャンル : 日記

夏本番

京都は、17日の梅雨明けとともに、いきなり夏本番。 

連日、35℃をこえる猛暑に顎も上がり気味。 

通りを吹き抜けてくる熱風が顔にあたって、まっことたまらんぜよ(ウ、ウ、ウ、ウ)。


早朝から、「ジャウ、ジャウ、ジャウ、ジャウ…n」というクマゼミの大合唱。裏庭のセンダン木の梢にとまった蝉の鳴き声が、かしましくも暑苦しくもあり。

そこで替え歌1句。

「この世に絶えて蝉のなかりせば、夏の朝は静けからまし」


▼裏庭のセンダンの木で、尻を震わして鳴くクマゼミ。警戒心が強いのか、高い梢に。

DSC_0005Up_convert_20100723092158.jpg (クリックすると画像が拡大)



▼1cm大の青い実をつけたセンダンの果実(初めて見たな)。 陽光を浴びた緑の葉が涼やかだ。

DSC_0001_convert_20100723090313.jpg



先だって登室の途中、とある家の庭先に咲くサルスベリ(百日紅)の濃いピンク色の花と青い実。思わず、ショット。

夏季に咲く花は少なく、常緑樹の緑の葉にひときわ彩りを添える。

サルスベリ(猿滑)は寺院や民家の庭に植えられ、よく見かける。樹皮が滑らかで、猿も滑るという。

DSC_1745_convert_20100723081853.jpg

今日も、熱風吹き荒れる砂漠のような街を通り抜けて、登室するとするか。

庵主

テーマ : 日々のつれづれ
ジャンル : 日記

山鉾巡行”エピソード2”

「祇園祭」のクライマックスにして最大のページェント(ショー)。 

「長刀鉾」(前回の記事参照)につづき、豪華絢爛の31基の山鉾(山車)のオンパレード!!。

ここでは庵主が広角・望遠レンズをとっかえひっかえ激写した約180枚のカットから約50枚を厳選してアップ。 これだけの写真をアップするのは最初で最後か。

巡行を見物できなかったひとへ大サービス。

山鉾の見どころはいくつかある。 鉾や榊の仕立て、前懸、胴懸、見送(後懸)および上下水引に描かれた絵柄・図案、稚児・供御人・音頭取・囃子方・曳手の装束衣装、屋根飾・破風の装飾、踊りなどなど盛りだくさん。

スタートして1時間も経つと、ジリジリと照りつける容赦ない陽射しで体力を次第に消耗。カメラも焼けついてくる。 見学も楽じゃない。 

それでは、とくとご覧あれ。見ごたえがありますぞ。



▼画面中央右に信号機をいじる黄色い作業車が見える。

菫。蜿キ讖溷・逅・サ垣convert_20100720125845 (クリックすると画像が拡大)


▼巡行のスタート直前、山鉾の巡行路にあたる片車線の信号機を作業車と3人がかりで90度回転退避させる電力会社員。
こんな場面、初めて見たな。信号機にこんな仕掛けしてあるんだ(フムフム)。

DSC_0012_convert_20100718100719.jpg


▼いよいよ長刀鉾を先頭にスタート。天を衝くばかりに伸びた長刀の矛先。

奉行(市長)による「籤改め」のあと、稚児による「注連縄(しめなわ)切り」(幣を付けた1本の細い縄が四条通りに張り渡してある;見えるかな?)の直前。300mmズームで撮影。 鉾の前には注連縄切りを撮影するために群がる報道カメラマン。

後続の鉾も3基見える。 まるで観艦式の艦列さながら。

DSC_1755_convert_20100717193046.jpg



▼2番 孟宗山(もうそうやま、別名「筍山」)

儒教の二十四孝子説話の一つを題材。病身の母が欲しがる筍を孟宗(孟宗竹の名の由来)が、雪の中で筍を掘り当てたという故事にもとづく。 山車は、そのシーを再現。

DSC_0026_convert_20100720054851.jpg


▼孟宗山の胴懸

胴懸には平山郁夫画伯の「月の沙漠」シーン。山車(だし)の名にそぐわんが、あまり詮索せんとこ…。

DSC_0027_convert_20100720055004.jpg



▼3番 木賊山(とくさやま)

「能」の「木賊」(世阿弥作?)に題材を得たもので、子の松若を誘拐され、信濃国伏屋の里で木賊(トクサ)を刈る老翁の姿を描写。 老翁は悲嘆の歳月を送るが、ある日、旅層に伴われた松若と巡り会う。
右手に鎌をもち、左手に刈った木賊を握る翁。

DSC_0028_convert_20100717221825.jpg



▼木賊山の胴懸。 水引は中国の故事を描いたものか。

DSC_0031_convert_20100720063023.jpg



▼5番 函谷鉾(かんこほこ)

戦国七雄の一つ斉国の王族の孟嘗君が秦の国に招かれ殺されそうになったので脱出する際、夜明け前に追手が迫る中で、鶏鳴をうまく真似る食客に鶏の鳴き声をさせ函谷関の門を開かせた有名な故事(『史記』孟嘗君伝「函谷関の鶏鳴」)による。 

函谷関(河南省、黄河南岸の狭い河岸平野にあり、背後には華山山脈の急崖が迫る)は、軍事上の要衝で、もと河南省霊宝県にあったが、前漢武帝のとき東の新安県に移す。この関を境に、東を関東、西を関西とよぶ。

DSC_0033_convert_20100717221902.jpg


▼函谷鉾の鉾頭

鉾頭に三日月を配する。 天王座には孟嘗君の像。 その下の籠の中に雌雄一対の鶏。

DSC_1767_convert_20100718084905.jpg



▼函谷鉾の前懸

前懸は「創世記」(『旧約聖書』)の1シーンを描いた毛氈で重要文化財。 鉾名とは全く無縁。

DSC_1765_convert_20100718000741.jpg



▼函谷鉾の稚児人形。 よくできており、遠目には生稚児のように見える。

DSC_1764_convert_20100718000814.jpg



▼函谷鉾の稚児人形の弩アップ

贅の限りをこらした黄金製宝冠を著ける。黄金の花茎、朱玉、ヨウラクがきらびやか。

DSC_1769_convert_20100718180649.jpg



▼函谷鉾の見送(後部)

ドヒャッー。なんとエジプトの象形文字ではないか!! いささかミスマッチの気が…。これも愛嬌か!。

DSC_1770_convert_20100718085138.jpg




【閑話休題】浴衣姿で見物する隣のお嬢さん。藍地に白のコスモスの絵柄が涼やか。赤い帯の結びがかわゆーい。

DSC_0014_convert_20100718083758.jpg



▼6番 霰天神山(あられてんじんやま)

京で大火が起きたとき霰が降って鎮火したが、そのとき一寸二分の天神像も降ってきたという伝承に題材をとる。

前懸に矛を手にし怪魚をしとめる裸体の男性像を描く。 胴懸は雉に桜。

DSC_0038髴ー螟ゥ逾槫アア_convert_20100720060705




▼7番 四条笠鉾に従う棒振り、囃子童

金属製の錫杖を地面に引きずる先導に続き、棒振り2人と囃子(はやし)の童6人が2列で登場。

DSC_0040_convert_20100717222040.jpg


▼四条笠鉾

応仁の乱以前の古風な傘持ち姿をとどめるとされる。赤幣と松の枝を瓶に挿す。明治4年の巡行を最後に姿を消していたのが、最近再興された。

DSC_0045_convert_20100718222855.jpg


▼四条笠鉾に付き添う囃子童のいでたち

花笠、長袖、手甲、袴、脚絆、草鞋、ピンクの長襷、手に手に鳴り物と、なかなか堂に入った風流ないでたち。 

DSC_0042_convert_20100718083325.jpg


▼四条笠鉾の囃子童に扮した子供

四条河原町の「辻回し」に手間取り、鉾列が渋滞し、先になかなか進めない。 不満そうに唇を突き出す囃子童。

DSC_1781_convert_20100718184740.jpg


▼四条笠鉾の棒振り

先頭のザンバラ髪の子ふたりが棒を頭上に持ちあげ、ゆったりした動作で踊りはじめる。動画でないのが惜しい。

DSC_1785_convert_20100718084127.jpg



▼四条笠鉾の棒振り踊り

先頭の二人が棒持ち。あとの6人が囃子役を演じる。一糸乱れぬ踊り。

DSC_0044_convert_20100717222139.jpg



【閑話休題】中国人風の見物人も

DSC_1805_convert_20100719082921.jpg




▼8番 太子山

四天王寺(大阪)建立の際、聖徳太子が自ら山に入り良材を求めた所伝にもとづく。聖徳太子は髪をミズラに結い、白い装束に身をやつし、手に鉞をもつ。

DSC_0046_convert_20100718223132.jpg



▼9番 菊水鉾

「菊の水を汲む者は長寿する」という中国の南陽故事にちなむ。昭和27年に再興。他の鉾にない唐破風の屋根が重厚さをくわえる。

DSC_1789_convert_20100718003839.jpg



▼菊水鉾の榊

鉾に取りつける榊は鉾ごとに異なった趣向を凝らすが、この鉾の榊には白い紙の幣(ぬさ)が雨霰とつく。

DSC_1793_convert_20100718001113.jpg 



▼菊水鉾の囃子方(はやしがた)

腰半分宙に突き出し、両手で鉦を打つ囃子方も命がけ。金の幣、朱の房付きの組み紐、右手に団扇をもつ稚児人形。

DSC_1791闖頑ーエ驩セ_convert_20100720063744


▼菊水鉾の前部破風飾り

口に花枝をくわえた軍鶏(鶏の一種)をあしらったものか? 金箔づくめで陽光を反射し、ひときわ映える。

DSC_1792_convert_20100718001020.jpg


▼菊水鉾の見送。 優美な紅白2羽の孔雀の並翔。 構図が素晴らしい。

DSC_1800_convert_20100718001154.jpg


▼菊水鉾の後部破風飾り。向き合った鴛鴦番いの彫刻。

DSC_1801闖頑ーエ驩セ_convert_20100720231258



▼10番 伯牙山(はくがやま)。後続は山伏山、郭巨山

中国の周時代の琴の名手伯牙が友人の鐘子期(ひとり伯牙の琴を解する)の訃を聞き、琴の弦を絶ったという有名な故事にちなむ。

DSC_0049_convert_20100717222344.jpg



▼13番 鶏鉾(にわとりほこ)

中国古代の堯(伝説上の聖王)の治世、天下がよく治まり、訴訟時に鳴らす鼓も苔がむして、そこに鶏が巣をつくったという故事にちなむ。

DSC_0054_convert_20100717222432.jpg



▼16番 蟷螂山(とうろうやま)

御所車の上にとまったカマキリ(何を意味?)。屋根の上の蟷螂(カマキリ)は珍しくカラクリ仕掛けで、脚や翅(はね)、車輪が動く。屋根の棟端飾りはマカラ魚。

DSC_1808_convert_20100718001239.jpg



▼蟷螂山のカラクリ

蟷螂(カマキリ)が折りたたんだ翅(はね)を広げたところ。これを見て見物人が拍手喝采。小粒なれども人気のある山車(だし)。

DSC_1811_convert_20100718001313.jpg



【閑話休題】浴衣姿で見物

母娘連れか。黒地に大胆な白の糸菊の絵柄がよく似合う。帯留めも凛々しい。

DSC_1804_convert_20100718090050.jpg



▼17番 月鉾(つきほこ)

日本神話に登場する月読尊(ツキヨミノミコト)にちなむ。月読尊はアマテラスオオミカミの弟で、『古事記』では夜の世界を治めたとされる。

DSC_1771_convert_20100718000855.jpg


▼月鉾の上水引。 躍動感に満ちた霊獣。

DSC_0059譛磯伽_convert_20100720223742


▼月鉾の下水引

上部に糸菊、下部に青海波紋を地にトビウオ、マダイ、キンメダイ、カワハギ、キスなどをあしらう。なかなか奇抜なモチーフ。

DSC_0056鮓城伽_convert_20100718183304


▼月鉾の胴懸

重厚な感じの毛織物の胴懸。図案はヨーロッパ風。オランダ製か。

DSC_0057鮓城伽_convert_20100718182842


▼月鉾の見送

中島に花をつけた背高の植物を配し、水辺に白鳥、鷺、鴨が戯れる情景を描く。

DSC_0061_convert_20100717222650.jpg



▼18番 占出山(うらでやま)

神功皇后が肥前松浦郡玉島川でアユを釣って新羅征討の戦勝を占った説話(『古事記』『日本書紀』)にちなむ。右手に釣竿をもつ神功皇后。

DSC_0062_convert_20100718224028.jpg



▼19番 芦刈山(あしかりやま)

謡曲「芦刈」をモチーフとしたもの。窮乏し夫と別れた妻が都に上り富裕になった後、別れた夫を思い出し難波に行って、芦売りをしていた夫と再会する説話(原典は『大和物語』)にちなむ。
右手に鎌、左手に芦を手にする老翁。

DSC_0063闃ヲ蛻亥アア_convert_20100718224600



▼20番 保昌山(ほうしょうやま)

平井保昌が和泉式部のため紫宸殿の前の紅梅を手折ってくる姿を描写。

DSC_0066_convert_20100717222744.jpg



▼21番 放下鉾(ほうかほこ)

天王座に放下僧の木彫り人形を祀る。 以前は長刀鉾と同様、生稚児(いきちご)を載せていたが、昭和4年以降「三光丸」という人形に代えた。

DSC_0070謾セ荳矩伽_convert_20100719074931


▼放下鉾の見送

アリャ、夜のモスクの町にフクロウが2羽飛んどる。見送の図案は「何でもありき」だな。

DSC_0072謾セ荳矩伽_convert_20100719073655



【閑話休題】トンボのサングラスをかけた粋なお嬢さんも見物

DSC_1752_convert_20100718231643.jpg




▼22番 岩戸山

鉾の代わりに松の木を上げる。『古事記』『日本書紀』に記すアマテラス大神の岩戸隠れ神話に題材をとる。
アマテラスオオミカミと手力雄命(タリキオノミコト、天の岩戸を押し開いた神)を祀る。

DSC_0074_convert_20100717222914.jpg



▼22番 岩戸山

屋根上にイザナギノミコトを安置する。手にするのは、海水を掻き混ぜて滴る鉾の先からオノコロ島を生み出した有名な「天の沼矛」。

DSC_0075_convert_20100717222954.jpg



▼岩戸山の曳手のいでたち。いかにも涼しげな衣装で、笠と草鞋もきまっとる。

DSC_0077_convert_20100717223325.jpg



▼23番 船鉾(ふねほこ)

船の形をとる異色の鉾。神功皇后の「三韓征伐神話」にちなむ。腹帯をしめた神功皇后像に従う住吉三神(海神)、鹿島神(軍神)などを祀る。船鉾の神面(お札)は安産の御利益が高く、古来、妊婦に人気が高いそうだ。

DSC_0078闊ケ驩セ_convert_20100720065233



▼船鉾。 舳先にはばたくのは黄金のグリフォン(まさか?)、甲板に豪奢な黒漆塗りの屋形(神像を安置)を載せる。

DSC_0080闊ケ驩セ_convert_20100720065017


▼船尾の水引に描かれた、躍動感あふれる麒麟

DSC_1818_convert_20100718084550.jpg


▼舵に描かれた飛龍

水面から龍が大きな翼を広げ天に舞い上がる状景。思わず笑ってしまいそうな、なかなかユーモラスな龍の描写だ。

DSC_1819_convert_20100718001339.jpg


▼ 梅雨明け空

ビルの谷間で繰り広げられる巡行を後にし、鴨川にかかる四条大橋に出ると、空が大きく開け、澄み切った青空に真白い綿雲が。 昨日までのどんよりした梅雨空が嘘のよう。 黄色く濁っていた鴨川も水かさが減り、清流に。

DSC_0082_convert_20100718082729.jpg



山鉾巡行も無事終わり、いよいよ京都は夏本番だ。 アーア、この先ひと月の猛暑が思いやられるわい。

東京のK瀬さん、ブログ見たかいな?  こんな文化は江戸には無かろうて(ウシシ)。

都落ち(?)した教え子よ、京都が恋しくなっただろうな。

曳き手の皆さんをはじめ表方・裏方の関係者の方々に深謝!!!

洛倭亭庵主

テーマ : 日々のつれづれ
ジャンル : 日記

山鉾巡行”エピソード1(長刀鉾)”

7月17日。 宵山とともに梅雨も完璧に上がり、青空が覗く快晴。 最高気温が35℃の予報。

今日は、1月つづく祇園祭の壮観華美の一大ページェントである「山鉾巡行」。32台の「山」と「鉾」が定められた順番にしたがって整然と巡行する。

知人から四条寺町に設置された「御旅所」の観覧席の招待券をもらい、朝8時過ぎ、一眼レフカメラ2台を肩に引っさげ出かける。

途中通り過ぎた御池河原町、四条河原町のコーナーには、早くも見物人が場所取り。


▼早くも巡行1時間前に四条河原町に詰めかけた観衆。

ここは「辻回し」(車輪の下に割り竹をかませて山鉾を直角に方向転換)を見物するには最高の場所。 ビルの日陰となる場所はとりわけ人気が高そうだ。 来年はここに座を占めて、「辻回し」激写とまいろうかな。

DSC_0003_convert_20100718100233.jpg


▼四条御旅所

四条通に設けられた特設の「御旅所」は北面し、山鉾の巡行方向に向かって南側からのアングルとなる。直射日光が降り注ぐ以外、撮影場所としてはまずまず。

DSC_0009_convert_20100718100321.jpg


あとはズーム、ワイドレンズを取り付けた2台のカメラを取っかえ引っかえ、フレーミングを決め、ひたすらシャッターを押すのみ。


▼巡行の先頭を切る「長刀鉾」が接近中。 山鉾の順番は籤で決められるが、先頭は必ず長刀鉾と決まっている。

鉾先までの高さ約25m、屋根までの高さ約8m、重量約12t。 直径2mの車輪が四つ付き、これを2本の太綱に分けた40人ほどの「曳手」で引っ張る。 後方に見えるのは5番手の「函谷鉾」。

DSC_1755_convert_20100717193046.jpg (クリックすると画像うが拡大)



▼疫病邪悪をはらう長刀鉾のアップ。 鉾の中ほどに束ねた榊の生枝を左右に振り分けて結わえる。 その上下に装飾としての「和縄」を取り付ける。 「和縄」の上の赤い長方形の部分が「天王座」。

DSC_0016_convert_20100717193500.jpg



▼中央に「稚児」の姿が見える。生稚児が乗るのは長刀鉾のみ(残余は人形)。

DSC_1757_convert_20100717193147.jpg


▼稚児のアップ

きらびやかな黄金の冠と胸に小大鼓。左右に介添人を従える。

DSC_1761_convert_20100717193226.jpg



▼稚児による「太平の舞」

DSC_1763_convert_20100717193305.jpg



▼8人の「囃子方」と屋根の上に「屋根方」2人が見える。

DSC_0020_convert_20100717193404.jpg


▼長刀鉾

前懸と胴懸は、インドや中国産の絨毯。扇を手にする前部のふたりの「音頭取」は呼吸もぴったり。

DSC_0022_convert_20100717203632.jpg


▼長刀鉾後部

上水引に木瓜紋(八坂神社の社紋)。破風の上の棟飾りはマカラ(摩竭魚)か。後懸には、ユーモラスな顔の龍をあしらう。

DSC_0024_convert_20100717214254.jpg

テーマ : 日々のつれづれ
ジャンル : 日記

宵山

今日は、待ちに待った祇園会の「宵山」。

夕方、稲妻とともに遠雷が聞こえ、ひとしきりの雨が。 これぞ京都の梅雨明けを告げる恒例の自然現象。

四条通、烏丸通の歩行者天国が解除される23時過ぎ、満を持して目当ての「駒形提灯」の撮影に。


まずは新町通りの「山鉾」に狙いを定める。夕方は喧騒を極めるが、さすがにこの時間帯になると、人出も潮が引いたように。


鉾町に近づくと、路地から「コンチキチン」の囃子がかすかに聞こえてくる。

これを聞くと、なにかしら浮かれてくる。 血が騒ぐのは本能か。




▼「八幡山(はちまんやま)」。暗闇に浮かぶ「駒形提灯」がなんとも美しい。こりゃ、われながら傑作だわい。

DSC_0009_convert_20100717004228.jpg



▼新町通りに所狭しとひしめく屋台また屋台。 遠くに見える灯火は「北観音山」の駒形提灯。

(クリックすると画像が拡大)
DSC_0012_convert_20100717004313.jpg



▼「北観音山」の駒形提灯

DSC_0014_convert_20100720072331.jpg




▼「北観音山」

DSC_0016_convert_20100717004352.jpg



▼「北観音山」の胴懸

DSC_0018_convert_20100717004432.jpg



▼「北観音山」の前懸

DSC_0022_convert_20100717004511.jpg



▼新町通りの町家。宵山の期間だけ各家秘蔵の什宝を公開。

DSC_0023_convert_20100720072415.jpg




▼町家の什宝。 絨毯の上に粽(ちまき)が……。

DSC_0024_convert_20100717004552.jpg



▼町家の什宝。金の屏風に粋な図柄の打ち掛け。

DSC_0027_convert_20100717004822.jpg




▼町家の什宝「打ち掛け」

DSC_0026_convert_20100717004736.jpg



▼新町通りで見かけた粋なワイン・バー。 ちょっと入ってみたい雰囲気。

DSC_0030_convert_20100717004912.jpg



▼ビルを背に人気の途絶えた「長刀鉾」。 明日の巡行本番を控えて深い眠りについたのか。

DSC_0033_convert_20100717004948.jpg


▼アーケードの神灯。山形に吊り下げられた配置がこころにくい。

DSC_0034_convert_20100720072547.jpg

テーマ : 日々のつれづれ
ジャンル : 日記

大雨洪水警報発令

昨日は、近来にない大雨。 珍しく京都市域に「大雨洪水警報」が発令されよった。

朝方、賀茂川にかかる出町橋に目をやると、黄色く濁る逆巻く濁流が橋げたまで1m強のところまで増水!!。

賀茂川(写真左)と高野川(同右)の合流点に形成された三角洲の河川敷も、あわや水没寸前!!。


▼増水した賀茂川の糺河原(7.15早朝撮影)
よく見ると、左の賀茂川の水位が高野川よりやや高い。 両河川の集水域の面積の違いによるものか?
P1010004_convert_20100715223758.jpg (クリックすると画像が拡大)


鴨川は、古来、洪水を繰り返した暴れ川として知られる。 平安京を造営したあともたびたび氾濫を繰り返し、朝廷も手を焼いたとみえ、「防鴨河使」という、もともと令制になかった官職を新設した(世に言う「令外の官」)。

平安末、権勢を誇った後白河法皇は、意のままにならないものを三つ(「叡山の法師(僧兵)」「賽の目」「鴨川の水」)挙げとる。そのひとつが鴨川の氾濫。

京都の地下を発掘すると、江戸時代に賀茂川が氾濫運搬してきた厚さ数十cmから1m弱の砂礫層が、御所の北側(同志社女子大構内)付近まで確認できる。砂礫層の中から茶碗のかけらも出土することから、洪水に飲み込まれた家屋があったことがうかがえる。 住人はうまく逃げおおせたことだろうか。

平安京造営以前には、この地域には広漠とした河原が広がっていた。鴨川の西にある通りの名(「河原町」)からして推して知るべし。 

京都盆地は、太古以来、賀茂川・高野川が運んできた沖積地からなる。川が流れる流路の上に平安京を造ったのだ。その証拠に盆地の地下には厚い砂礫層が堆積しとる。

こんなところに、よくも都を造営したもんだ。

「防鴨河使」という役所は、賀茂川・鴨川の京内への氾濫を防ぐための堤防造りが主な仕事だったんだろう。

いったん大雨になると、堤防の補強に多くの人たちが駆り出されたに違いない。 

築けど築けど次々に決壊する堤防を前に、人知の及ばぬ自然現象の猛威に対する畏怖の念は、いやがうえでもつのっていったに違いない。

濁流を眺めていると、はるか平安時代の防鴨河使長官の悲嘆の声が聞こえてきそうだ。

いかに文明、技術が発達しても、自然の猛威には勝てん。 愚かな人間どもよ、驕るなかれ。 

過去にあじわった手痛い教訓を忘れたらあかん。


▼増水した賀茂川(7.15早朝撮影)
昨日に比べて水位が下がるも、飛び石の亀石は完全水没。河川敷には人っ子ひとり見えず。
北山には低い雲が垂れこめている。
P1010001_convert_20100715223731.jpg


テーマ : 日々のつれづれ
ジャンル : 日記

祇園祭神輿洗い

7月10日 梅雨空に午後から陽射しがのぞく。 明日からの1週間は雨の予報。

京都の夏は「祇園祭」とともにやってくる。この祭りは八坂神社の最大の祭礼。 京での疫病の流行を鎮めるため9世紀にはじまったとされるが、真偽のほどは定かでない。

今日はその「鉾立」(山鉾の組み立てスタート)、「神輿洗い」(神輿の清め)。

祭りのクライマックスである17日の山鉾巡行、神輿渡御へとつづく。祭りは7月1日から1ヵ月ほど続く。

午後8時、四条大橋上で「神輿洗い」の神事をあでやかな浴衣姿の教え子たちと見学。かくいう庵主も18歳で京都に漂着して以来、初めての実見。

神輿洗い神事を窺わせるのは、橋中央の欄干の両側の青竹に細い注連縄が張ってあるだけ。

神輿が到着すると、橋の上は立錐の余地もないほどの人、人、また人……。

昔は、三つの神輿が出ていたそうであるが、いまは一つだけになってしまった(残念)。

かつては鴨川に神輿を降ろして、鴨川の水を振りかけて禊ぎをしていたそうであるが、いまは汲んできた鴨川の水を四条大橋上で形だけ振りかけ、ひとくさり神輿回しをしてあっけなく終了。 

ちと簡略化し過ぎでは……。祭神のスサノオノ尊の逆鱗にふれなければよいが……。


▼暗闇の帳(とばり)に包まれた鴨川界隈。 左手は川床の明り。

DSC_0026_convert_20100710231927.jpg


▼昼間の鴨川(上の写真と同じシーン)  遠くに北山の山波。

DSC_0004_convert_20100711203550.jpg



▼稚児二人が先導する神職?一団の露払い。

DSC_0027_convert_20100710231453.jpg


▼松明をかざした先導。

電灯がなかった昔、夜道を照らした遺制か。あるいは火によって神輿の通り道を清める役割も担ったか。

DSC_0032_convert_20100710231611.jpg



▼神輿

やや小ぶりだが重たそう。 黒漆塗りの体部と金箔の屋根は八角形。 屋根には木瓜紋(八坂神社の社紋)と三巴紋。アレッ、頂部の飾りがない!?

DSC_0040_convert_20100710232012.jpg



▼祇園の町家の軒先に吊るされた御神灯

下の字が難し過ぎて読めん。
 
DSC_0046_convert_20100710231753.jpg



▼祇園の料亭の御礼灯(提灯)

こっちは少し凝っとる。提灯にも格式があるようだ。

DSC_0047_convert_20100710231842.jpg

テーマ : 日々のつれづれ
ジャンル : 日記

出町商店街の七夕祭り

今日は新暦の「七夕」。

15時ころ、高い雷鳴とともに車軸を流すような強い雨がひとしきり。

しばし雨宿りの後、出町商店街の七夕の飾り付けを見上げながら帰宅。 商店街挙げての七夕祭りは「夏の風物詩」。

この界隈は室町時代ころから酒屋が集中していたところらしい。

30年ほど前まで、その名残りか「大門酒造」というのが1件だけあって、店の入口に「伴淳三郎後援会」という大きな木の表札が掛けられとった。

巨大な酒樽が据えられた暗く広い土間に小さなテーブルとパイプ椅子を据え、商店街で買ってきた屑ハム、コロッケ、揚げ物を酒の肴にコップ酒したもんだ。酒は一升瓶でそのまま燗をつけていた。
土間の横では、客にはばかることなく、店の家族が一家団らんの夕餉を取っていたほほえましい状景が。
そんな時代もあったね(だれかの歌詞にあったな)。

「全国どこでもアーケード商店街が寂れるいっぽうの時世のなかで、ここだけはシャッターを下ろした店もなく、なかなか奮闘、善戦中だ。エラい!!。

アーケードを歩いとると、七夕飾りへの熱の入れようからして、この街を愛する人たちの心が伝わってくる。

一昔前は、商店街前の広場に種々の屋台が並び、綿菓子売り、金魚すくい、あげくはお化け屋敷小屋までつくられ、人、人、人の波であふれていたが、それも今や昔。

その広場も市営の地下駐車場、道路に変わって、そうした企画も駄目に。

市主導の都市再開発が、地域商店街の活性化の足を引っ張った悪例と言おうか。

市民の目線に沿った施策を取らんとこんなことに。

「出町商店街」の皆さん、これからもお気張りやす!!! 庵主も陰ながら応援すっから。




▼出町商店街の七夕飾り

吹き流しにも似た五色の垂れ飾りが、「七夕」ムードを醸し出す。 仙台の「七夕祭り」を想起させる。

P1010005_convert_20100707195511.jpg


▼出町商店街の七夕飾り

魚屋が出したものか、巨大な張子の魚(マグロ?)がアーケードの天井から吊り下げられとる。

P1010004_convert_20100707195425.jpg


▼出町商店街の七夕飾り

飾りの両脇に「エコ商店街」のキャッチフレーズも。

P1010003_convert_20100707193614.jpg



▼出町商店街の七夕飾り

願いを込めた色とりどりの短冊が吊るされた笹の葉。 これは昔懐かしい飾り付けだ。

P1010007_convert_20100707193702.jpg



▼出町名物ふたば(菓子屋)

ここの「豆餅」はつとに有名。日に個数を限った生産のため、長蛇の列ができる。なかには買いそびれる人も珍しくない。
買い物する娘さんの涼やかな浴衣姿が、いやがうえでも七夕気分を引き立てる。 浴衣姿っていいな。

P1010009_convert_20100707194338.jpg



▼出町橋の西詰にひっそり立つ「妙音弁財天」(京洛七福神の一つ)

学生時代には、夜ともなるとこの前に屋台ラーメン屋が軒を並べていたが…。
万博のころだったか、外国人観光客の目を気にしてか、市が撤去させよった。

P1010012_convert_20100707194420.jpg


▼妙音堂

ビルの合間にひっそり立つ小さなお堂。 出町界隈の商人たちに古くから崇拝されたのであろう。

P1010014_convert_20100707195551.jpg



▼弁財天(べざいてん)の絵

通称「弁天さん」。美人のたとえにも使われる。弁財天はもともとインドの河神で、音楽、知恵、財物の神として信仰された女神。琵琶をもった姿で描かれることが多い。

P1010016_convert_20100707214237.jpg


▼パンフレット抑えのカワユーイ焼物

参拝受付の脇で見つけたネコ(左)とブタ(ブタ)の焼物。顔の表情がなんともカワユーイ。庵主も欲しいけど、どこで手に入るもんやら……。

P1010020_convert_20100707194457.jpg



▼「京洛七福神」の所在地を掲示

これは親切だわい。 これから富と財を願って「京洛七福神}行脚ラリーでも始めるとすっか。ちと遅すぎるかな(アハ)。

P1010025_convert_20100707194537.jpg



▼増水した鴨川(賀茂川と高野川合流地点)

亀石の飛び石で遊ぶひとたち。2時間ほど前、集中的強雨に襲われたんで、水位が急上昇中。命知らずな。

P1010029_convert_20100707194639.jpg

テーマ : 日々のつれづれ
ジャンル : 日記

ネコ絵デビュー

梅雨のせいで、ブログネタがついに切れてもた(涙)。

とうとう、隠しネタ(or隠し技)を引っ張り出す羽目に……。

画像は、庵主が徒然に描いた研究室棟の隣のアパートに棲む飼いネコ。

ときどき、研究室棟の入り口付近で油売っとる。 

近寄っても逃げんし、首の下をコチョ、コチョやったると目を細めよる。 人(ネコ?)見知り、しよらん。

首にカワユーイ鈴をぶら下げとるんで、こりゃ、飼いネコだわい。 ただし、飼い主を知らんが。

目の色がやや青みがかかっとる。頭のサイズの割には胴体がやたらデカく、尻尾が短く小さい。四肢も短く細い。

ヒトでいえば、ずんぐりむっくりタイプ。

こんな体型、近年、街歩くっと、中年によう見かけるようになった。 

最近、教え子や友人にも……。 実名はここで挙げんけど、気ぃつけや!!。 

ときどきこのブログ覗いとるご仁(ドキッ)、ひたすら減量に努めーよ。

アカン、今日のブログのテーマは、「肥満」の話じゃなかったわい(忠告は兼ねとるけど)。

このネコ、どうもシャムネコの血が混じっとるんでは??と、庵主(兼老師)はにらんだが…。

ネコに訊ねても応えてくれんし、誰かネコにウルさいひと、是非にご教示をたもれ(ペコ)。

老師のスケッチは、かなり精密だと思うが…。

ネタ切れのときは、余技の水彩画(汗、汗)でも細切れに披露するとすっか。 それもリクエスト次第じゃが。

(クリックすっと、画像が拡大しやす)
鬟シ縺・ロ繧ウ_convert_20100705085141 庵主自筆画

テーマ : 日々のつれづれ
ジャンル : 日記

プロフィール

洛倭亭庵主

Author:洛倭亭庵主
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード