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泥河湾盆地の動物

今回の記事のテーマは、泥河湾村の農民生活を支える益獣たち。


この地域は、北京から僅か200kmの地にありながら、河北省でも最貧地域のひとつ。
北京の繁栄とこの盆地の住人たちとのギャップは、中国の実像を象徴的にものがたる。

農民たちの耕作、運搬、移動に欠かせないのがロバだ。トラクターがまだ普及しておらず、耕作には馬、ロバ、ウシを使役する。草をはませるだけで働いてくれるんで、金もかからんでいい。トラクターが使われ出したら、中国の石油需要は現在の倍にもなろう。そうなったら、石油がいくらあっても足りん。

ガソリンスタンドの石油価格表示を見ると、日本と変わらないぐらいだ。国民所得の平均が日本の10分の1ほどなので、いかに高いかが知れよう。


ロバは、脚力が強く(坂の多い山間部での運搬には最適)、従順で有益な家畜だ。古来、農民の生活には欠かせなかったし、現在なおそうだ。

だが、いったん機嫌を損なうと、梃子でも動かなくなる気性をもつ。人間も動物も扱いはあまり変わらん(笑)。

今回の泥河湾の調査中、いたるところで出会った。




▼舗装された道路で荷車を引くロバ。交通手段としても農民に重宝される。

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▼ずんぐりむっくり体型のロバさん。頸木(くびき)から伸びた革帯に”かなえ”を取りつけて車を引っ張る構造。また小さな鞍から伸びた革紐をかなえに固定。

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▼カワユーイ目をしたロバの顔。

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▼スマートな体型のロバの子供。生後半年くらいか?。立髪がだいぶ伸びてきた。遠くに見えるのは親ロバか。ウマやロバの子は母親のそばから離れない習性があるので、放し飼いにされる。

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▼村中の道端で寝そべるクロウシ。見知らぬ人が近づいても、動じる気配がなく悠然としとる。お尻のペンキは所有者を示す刻印代わりか?

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▼農家の番犬。近づくとやたら吠えてきた。在来種の小型犬。泥河湾の村々で飼われているのは「チン」系統の小型犬が目立つ。

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▼朝方にセロリを出荷するためトラックに積み込む場面に出くわした。鮮度を保つために水を掛ける。北京へ運ぶのか。三輪車が昔懐かしい。日本でも1950年代までよく見かけたものだ。周りはトウモロコシ畑。
前回訪問したときは、農薬の使用を禁じる「立て札」を目にしたが、今回は見なかった。

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▼ゴミ入れの縁で高野豆腐(泥河湾の三大名物のひとつ)の天日干し。この高野豆腐、昨日の夕食で食べたが、これを見たら食べる気が…。奥の家は村の豆腐屋さん。
日本の高野豆腐と違い、戻したとき弾力性がなく、歯ごたえがある。味はといえば、いまいち……。

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▼村中を移動中の羊の群れ

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▼暑さにぐったりの羊。鳴き声も漏れてこない。毛を刈られて丸裸の姿は一見ヤギと見間違う。

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猛暑に韓国のネコもぐったり

今夏は、韓国も日本と同様、太平洋高気圧にすっぽり覆われ、猛暑のお裾分け!?。


非武装地帯の南にある全谷里のホテルのロビーの床で、猛暑に伸びているニャンコ2匹が。

冷えたコンクリートの床が冷たく心地よいのか、横になって気持ちよく寝ている。

毛並みといい、面つきといい、よう似とるんで双子かも。

マスターに聞けば、今年3月に生まれたばかりの仔猫だという。

携帯のレンズを近づけると一瞬目をあけてにらみつけ。

でも、危害を加えないと思ったのか、また横になってスヤスヤ。

寝顔がかわい~いニャンコだ。


▼冷たい床で熟睡

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▼寝顔がなんともかわゆ~い

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▼近づくと、やおら目を覚まし、睨みつけた。

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▼また、眠りこけた。。

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中国泥河湾盆地訪問

洛倭亭悠遊録ブログ、ここ2週間休業しておりまっした。


日本の記録的猛暑から脱出し、韓国を経て中国河北省の泥河湾(北京から西北へ200km)へ調査に出かけておりやした。

「泥河湾(ニイーホーワン)」という地名は、地学の教科書に載っていて、日本でもお馴染みだ。

19世紀の初め、イエズス会の宣教師エミール・リサン(仏人)がこの地で伝道するかたわら、更新世初期の哺乳動物化石群を見つけた。古生物学者のバーバー(独人)やティヤール・ド・シャルダン(仏人)の現地調査を経て学界に報告されたことから、わずか数十所帯の寒村が一躍世界的に有名となった。ここで見つかった哺乳動物化石群(「泥河湾動物群」)は、アジアの更新世初期の標準化石とされた。


▼リサンが拠った泥河湾村の教会。 古い教会は文化大革命で破壊され、写真の教会は1970年代の後半に再建されたもの。この教会を見降ろす高台に宣教師の墓がある。[天主堂]の額の上にイエズス会の徽章である「JHS」が見える。

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庵主は、この地を訪問するのは今回が4度目。

泥河湾盆地は東西180キロ、南北数十キロもある途方もない盆地である。かつてステップが広がる原野に広大な湖が存在し、湖辺には豊富な動物群が生息し、それを獲物とした旧石器人がこの地で生活した。

なんと170万年前から1万年前にのこされた旧石器時代の遺跡が130ヵ所も見つかっている。


今回も、河北省陽原県(人口27万人)政府の招待所(陽原賓館)に宿泊。

前回訪れたのが2003年なので、7年ぶりの訪問となる。

朝方、ホテルの前のメインストリート(?)に出てみると、バイクに乗って出勤する人が目立った。7年前は自転車通勤だったのがバイクに変わり、この間の中国の経済成長が実感される。

▼陽原の市街地

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盆地の標高が1000mあって、日中の気温が25℃前後。朝方は10℃台まで下がる。湿度はほどんどなく、いたって爽快。

空は抜けるように青く澄みきっており、紫外線が強く感じられた。

河北省内でも生活水準がとりわけ低く、陽原を離れると日干し煉瓦の農家が立ち並ぶ集落が点在する。

主食はアワや麺類で、寒冷地のため米は収穫できない。作物としてはトウモロコシ、コウリャン、アワ、ヒマワリが目立つ。ほかにリンゴ、セロリ、ブドウも栽培されている。

ここの三大名物は、高野豆腐、驢馬肉、狗肉で、いずれも相伴にあずかってきた。




▼泥河湾盆地の景観。  虎頭梁遺跡からみた盆地中央部の景観

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▼河谷の豊かな緑と、ピンクと白の地層が露出する台地のコントラストが独特なステップ景観を醸し出す。

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▼ピンクと白の荒涼とした大地の谷間だけに木が生える。 中央左の赤土が見える場所が于家溝遺跡で、旧石器時代末の装身具ほかを出土。

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装身具


▼ビタミン不足を補うために街で買ってきた果物(ハミウリ、ブドウ、リンゴ)

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河童の里”遠野”へ

岩手の畏友からの吉報で、急遽、”河童の里”遠野市へ出張する羽目に。


11日、対馬海峡を北上中の台風4号の東北上陸が予想される中、伊丹空港を飛び立ち、昼前に花巻空港へ降り立つ。

昼食もとらず、遠野へ直行。

沿道で見た水田には青々と生長した稲穂がすでに実をつけている。聞けば、今年は豊作らしい。

花巻から遠野までは、宮沢賢治の作品で知られる「銀河鉄道」(JR釜石線)を脇に見ながら山間部を抜ける。この道(国道283号線)は、宮守村の金取遺跡へ行くのに何度もたどったルートだ。

沿道は東北の里山の原風景をいまにのこし、緑豊かで心が癒される。屋敷畑の一角に植えられた夏花が賑々しく、またカラフルだ。お盆の墓参りように植えられたものか。

訪問目的地の工事現場からの帰りに山道脇から一頭のカモシカが車の前に飛び出し、写真を撮る間もなく雑木林に消えた。角がなかったからメスなんだろう。こんな人里近くにも出没するとは。北上山地の自然の豊かさを物語る。


17時までに所要(top secret!)を済まし、遠野駅の2階にある「Folklore TONO」にチェックイン。

お盆休みで遠野のホテルはどこも満室状態。キャンセルにより、1部屋のみ空室あり(ラッキー!!)



チェックイン後、駅近くの粋な和風レストランで生ビールでゴクン、ゴクンと喉を潤しながら、三陸海岸の釜石港から直送の超新鮮な刺身に舌鼓。

カウンターに目をやると、三枚に下ろしたヒラメの骨を揚げたのがのっとる。即注文。パリッと揚がり、適度に塩味が効き美味い。しかもカルシウム分たっぷり。こりゃー、ビールのつまみには最高だわい。




12日の朝食後、駅前を散策していると、えらくスリムな河童の立像が目に飛び込んできた。

河童の顔の表情がいかつくもこわくも(夢に出て来てうなされそう)、小さな子供を怖がらせそうだ。イメージとしては、ちといただけないんでは?。

ここは、柳田國男の『遠野物語』に出てくる河童で全国的に名を馳せた町だ。いわば日本の河童の故郷(他の河童の町からクレームが来そう)。

その『遠野物語』が世に出されてから今年で100周年を迎え、市を挙げてのキャンペーンを展開中。


▼シンボル・キャラクターの河童のカリンちゃん。カワユーイ!

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遠野は、北に早池峰山(1917m)を遠望し、四方を山で囲まれた盆地。冬の寒さはつとに有名だ。

戦国時代末、南部氏の発祥の地として知られ、江戸時代にはその支藩(遠野南部氏;1万2000石)が置かれた。

三陸海岸でとれた塩を、カマスに入れ馬の背に括りつけ、盛岡に運ぶ中継地としても栄えた。




今年の5月にリニューアル・オープンした遠野市立博物館は、戦国時代末に南部氏が拠った鍋倉城(現在、南部神社が鎮座)の麓にある。市立図書館と一体となっていて、その3階にある。4階はシアターで『遠野物語』の世界をアニメを使って上演中。「河童の駒引」「キツネの恩返し」「やまんば」のアニメが3面の大スクリーンを使って放映。

考古資料は金取遺跡の石器(レプリカ)があるだけで、歴史時代の文書、絵馬、修験関係遺物、神楽面、農耕具などの民俗資料、柳田國男の原稿・書籍、地元出身の著名な現代陶磁家の作品などを展示。また近代に入った遠野の街の賑わいをジオラマとビデオで復元。

前にブログで書いた「絵馬」のコーナーがあり、ふと脚が止まった。

巨大な作品はないが、五角形の通常型のもので占められる。

元禄のころ(17世紀末)の墨書をもったものが最も古い。もちろん馬をデザインとする。ここに展示された絵馬のほとんどが馬を題材にしている。変わり種としては虎の絵があった。

有料だが、入館者を飽きさせない展示で、よく工夫が凝らされている。遠野を訪問される方にはお薦めのスポット。




▼遠野駅舎と抱き合わせのホテル「Folklore TONO」(2階)。以前にも一度泊まったことのあるレトロ調のホテル。

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▼今年は柳田國男の『遠野物語』刊行100周年にあたり、遠野市をあげてキャンペーンを展開中。

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▼駅前に設置された水木しげる画の看板。

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▼家族連れの観光客がキャラクターの顔のところから顔をのぞかせ、記念撮影中。ほほえましい光景に思わずショット。

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▼駅前公園の三匹の河童の鉄像。

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▼駅前公園の河童の立像。顔が怖い。

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台風4号の東北上陸が伝えらる最中、飛行機の運航中止も危惧され、最終便の予約をひとつ前のフライトに変更し、伊丹空港に戻ることに。

空港ビルから搭乗する小型ジェット機のタラップまで、強雨で水浸しになったエプロンを歩かさせられて搭乗。

厚い雨雲の上を飛行し、16:00過ぎ、伊丹に無事着陸。

まさに1泊2日の弾丸旅行であった。

ネコも猛暑にバテバテ(Ver.2)

連日35℃をこえる猛暑にネコどももぐったり。

暑い昼間は風が通る木陰の下で、グターッと伸びとる。

あの毛じゃ、暑苦しいわな。とても、夏向きのコスチュームじゃないって。

人間の衣服とちがって毛皮を脱ぐわけにはいかんし。年中、同じ毛皮を見に着けとらにゃならん(同情しきり)。

これは、ネコがもともと寒いとこに棲息していたことを物語るんでは!。熱帯に永いこと棲んどったら、ダーウィン先生の進化論からすれば、毛が短いライオンやヒョウのような体毛になっとったはず!。

待てよ、地球温暖化でネコの毛もこれからそう進化(退化?)すっかも。

温暖化向けの遺伝子を持ったネコが突然変異で現われるかも。そうなりゃ、適者生存の法則にのっとり、この手のネコの天下に!?

そんなネコどっかで見つけたひと、このブログに返信して!!!。  ちゃんと連名で論文にすっから(笑)。

それとも、ネコって根っからの寒がり屋だから、苦手の冬場(温暖化でネコも欣喜雀躍??)を凌ぐのに長い毛を残しておくかな?



ひと月ほど前、生後間もない三毛猫3匹をブログアップ(5月29日記事)したが、どこまで大きくなったか、おばあちゃんの家に覗きに行ったら、ずいぶん成長しとった。

なんと、仔猫を入れて七匹(トホホ)も居候(グェッー)。こりゃー、ネコ屋敷の観が……(ヤバイ)。

庭に足を踏み入れると、猫四匹が庭のあちこちの木陰で昼寝と洒落込んどった。

子供が言うには、いずれも血縁関係にあるらしい。

半ノラ、半家ネコどものネコ系図が書けるわい(何の役にも立ちそうもないけど)。

食っちゃ寝、食っちゃ寝しとるぐ~たらネコどもよ、勝手に子孫増やすな、モーッ。

無芸大食の輩め、なんか人間受けするような芸でも身につけんかい。



▼横になって熟睡しとったのが、カメラを向けるとおもむろに顔だけあげよった。

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▼仔猫の母親。精悍な目付きをしとる。

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▼5月に生まれた仔猫。自転車のサドルに乗せられ怖そうな目しとる。

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▼親猫とじゃれあう仔猫たち。

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▼木陰でじっとカメラワークをうかがう雉ネコ2匹。右側のネコは、いつでも逃げ出せるよう、爪を立てて身構えとる。

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あかん、この暑さで脳がやられてきたのか、だいぶ記事が荒(すさ)んできよった(トホホ)。

従前の格調(?)と品位(?)を回復せにゃ!。

神さま、仏さま、はよう涼しくしてたもれ。要らんこと考えるようになってもた(アハ)。


暑さで呆けてきた庵主

テーマ : 日々のつれづれ
ジャンル : 日記

イヌの話(エピソード2)

愛読者の要望にこたえて、「イヌの話」エピソード2をアップ♪♪。


かれこれ7~8年前になろうか、韓国の春川(チュンチョン)から全谷里(京畿道漣川郡)まで旧知のリー・ハンヨン君の運転する車で幹線道路(一般道)を3時間ほど走ったことがある。

この辺りは、山間部で南北方向に高い山並みが重畳として連なる。東西への移動は山並みにさえぎられ、じつに不便だ。春川ー全谷里間の距離はさほどでないが、この押し寄せる波のような山並みにさえぎられ、峠道への迂回を余儀なくされ、思いのほか時間がかかる。峠道は、まさにアリランに詠われた世界を実感させる。

移動のわずか3時間ほどの間、車にはねられ、哀れオダ佛となってもたネコの骸(むくろ)を数体目撃。

道路で昇天した哀れなネコの骸は、子供のころから目にした痛ましいシーンだ。

ネコという動物は、まじかに迫った車の前を横断するとき、道路を横切った後、何を思ったか直ぐ引き返す習性がある。そのリターン時に身の不幸に遭う羽目となる。運転するひと、気ィつけや。

韓国で車に乗って観察しとると、ネコの骸は横たわっているのに、不思議にイヌのそれは見たことがない??。

イヌだって交通事故には遭うだろうに。

「韓国でイヌの死骸を見ないのは?」と運転してたリー君に聞いたら、「直ぐ、車のトランクに入れて持って帰るんでしょう」と意味深な返事が。

それを聞いて「ハハーン」と納得。韓国のひとたちは、イヌは食うけどネコは食わんのだ!(中国人とは違う;朋友たち怒らんといて)。



全谷里という人口1万人ほどの邑(この邑という字は『魏志』倭人伝にも出てくる)は、DMZ(38度線の非武装地帯)にほど近く、韓国軍の前線基地が群在するところだ。東方の鉄原から流れてきた漢灘江(ハンタンガン)がこの町付近で大きく蛇行し、景勝地となっている(下の写真参照)。

この漢灘江が蛇行した北側に国史跡の全谷里遺跡がある。ここには、共同研究で7年間毎年通った。


▼全谷里遺跡の俯瞰。写真の上が北。中央の台地一帯が国史跡の全谷里旧石器遺跡。

全谷里俯瞰 右上方に全谷市街地。


この遺跡の対岸にある丘を調査中、遠くでただならぬ数のイヌの鳴き声を耳にした。近づいてみると、森の中にイヌを閉じ込めた鉄製のオリが100個ほど並んでいる。

初めて見る食用犬の飼育場だ(オヨ、オヨ)。

近づくと、オリから出してくれとばかりに、憐みを乞うような目付きでこちらを見ては媚を売るようにキュン、キュンと鳴く。その脇の小道を通らなければ目的地に行けないんで、イヌと視線が合わんように通り過ぎるのに一苦労。



全谷里滞在中に数度、イヌ肉料理店に案内された。辛子で赤く染まったダシ汁の中にスライスした狗肉を入れ、臭み消しにネギを入れる。よく火が通ったのを確かめて口の中に入れる。少し臭みを感じるが、食べられんことはない。一緒に連れて行った学生は、満面の笑みを浮かべうまそうにパクついとる(ウ、ウ)。

同行のHS嬢によれば、夏場に体力が弱ったときに狗肉を食する習慣があるという。また妊婦も昔は好んで食べたという。安産をイヌにあやかろうということだろう。イヌが安産することは日本でも知られとる。



イヌを日常的に食べるからと言って、韓国のひとを蔑視するなかれ。つい50年ほど前まで、日本人も食していたからだ(気の弱い若いひと、卒倒すんなよ)。事実を正視せにゃならん!。

庵主が幼少のみぎり、野犬狩りと称して捕獲しては胃袋の中に収めとったひとの体験談を聞いたことがある。
とりわけ赤犬の肉がうまいそうだ。毛色と肉の味とがいかなる関係にあるのかよう分からんが、一応、俗説としてまかり通っとる。


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中国でみた赤犬。




これは、かつて行きつけの居酒屋で知り合った方(進学塾を経営)から耳にした実話。

京都の大将軍というところに焼き肉屋が1軒あって、安くて肉がうまいもんでよう繁盛しとったらしい。その御仁も自ら脚(口?)を運んだという。

ある日、客のひとりが調理場に転がっているイヌの首を目撃してからというもの、客脚がバッタリ途絶え、挙句の果てに店は潰れてしまったそうな。「羊頭をかけて狗肉を売る」商売を地でいっとる(アハ)。

なんじゃ、ここの客ども!。節を曲げたらアカン!!。性根のすわっとらん日本人たちだ。

日本人がイヌの肉を忌避するようになったんは、戦後の欧米文化の影響じゃな。妙に外聞ばかりを気にするようになって(アハ)。

500年前に描かれた『洛中洛外図屏風』の絵をじっくり見なはれ!。イヌ獲りを職とする人物が描かれとるではないか。エピソード1でも書いたが、日本(当時は「倭」と呼ばれとった)のイヌ食は堂々2000年の歴史を誇る。恥じることなかれ、これは歴史的事実なのだ。こういう話になっと、日本人は直ぐ話題をそらす癖がある(笑)。


食というのはその国あるいは民族の文化だから、その中身に外国人がとやかく言う筋合いはない。

その点、韓国人は遅くとも原三国時代から延々と2000年にもわたって民族の食伝統を墨守し、いまなお簡単に節を曲げよらん(性根がすわっとる)。ただし、ソウル・オリンピック開催のときだけ、表の通りからこの手の店を引っ込めよったが……。ただし路地を入ると、そこはもう…。

日韓(中国を入れてやってもいいけど)でイヌ食・クジラ食・サル食の鉄の三国同盟を結び、東アジアの伝統食文化の精華(?)で欧米の食文化に対抗するちゅうのは(賛同者はあまり……)!!!。


いずれクジラ食・サル食についても特別寄稿せにゃアカンかな。食の話題になったら、ネタには事欠かんし。

今回の記事、思いもよらんところに漂着してしもた(汗)。



せっかく「イヌの話」続編をリクエストしてくれはったタイガー●●●●、すんまへん(平身低頭)。次は真面目に「イヌの文化史」やりまっから。飼い犬、食わんとっておくれやす。

どなたか本ブログのカットに赤犬の写真、提供してくれへんかな~。

かしこ

脱線庵主













テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

円亭の「冷汁」

今回は、食べ物の話。それも、目がない魚料理ニャン


昨夏、行きつけの○亭の大将に、わが故郷(島原)が密かに誇る郷土料理「冷汁(ひやしる)」を紹介したところ、それからというもの、夏ともなると庵主向けのスペシャル・メニューとなってきた(ウシシ)。


「美味い食べものづくりは、他人には絶対教えるな」というのが百年来の祖法?なれど、本ブログのに限って特別公開(親が生きとったら、それこそ勘当もんじゃ[!)。



「冷汁」のレシピ
海魚のベラ(島原ではクサビとよぶ。体長15cm前後。太平洋側の暖流に棲息。熱帯魚まがいの赤、緑の縞模様をもつ。)を焼き、熱いうちに骨から身だけを離して(ときどき小骨も紛れこむ)、あらかじめ擂り鉢でおろしたゴマにベラの身と白味噌を加えて、さらに小骨とも擂りこぎ(材にはグミの木が最高)を用いて擂り潰し、お湯を少しづつ継ぎ足して汁にしたもの。ベラの身の量と味噌の塩梅(あんばい)がなかなか難しい。甘味を出すために砂糖を少々加えることもある。よくよく擂り潰さんと、魚の骨が喉に……。

先祖伝来の冷汁は、もともと島原南部辺の漁民が考案した料理にちがいない。宮崎辺りでは、ベラの代わりにアジを使うそうな。また大将がのたまうには、同じ長崎県でもベラを具に使う話は聞いたことがないそうな。

大将がのたまうには、「庵主の家だけに伝わった魚料理では?」と。

ム、ム、ム、それなら、祖法とした理由が分からんわけでも…。

祖法を破ったんで、冥界に行ったとき、親にどう申し開きをすっか、いまから考えとかなくっちゃ(汗、汗)。


夏バテにはもってこいだ。夏場の家庭料理におススメざんす

食べ方としては、冷汁を冷蔵庫で冷やし、朝食の熱いご飯に掛けて食べるのが最高。刻み葱を和えたらまた一段と香ばしさが出る。オカズがなくとも、何膳でもお代わりできるんで「飯泥棒」の異名も。

最初の数回の試作(○亭)は味噌の量や魚身が多かったり、塩分が強過ぎて難儀した(高血圧には法度!)が、うるさくコメントをつけると、やがて昔懐かしいお袋の味に近づいてきた(フ、フ、フ)。やれば、できるじゃん!
なんとも研究熱心な大将だ。これでないと、一流の料理人にはなれまいて

添付の写真は、薄塩をまぶして焼いたベラの盛り付け。このまま身をほぐして食べても、淡白かつ香ばしい風味があって美味しい。キスと並ぶ夏の季節魚だ。


▼見事に盛り付けられた焼きベラのオンパレード。脇のスダチがワンポイント。

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焼き上がった直後は、甘く香ばしい香りが食欲をそそる。

大将に「2キロも仕入れたんで、一皿(十二匹)全部食ってもいい」と言われても(トホホ)、そんなに食えるかいな。せいぜい2~3匹が限度。

残りは、身をほぐして「冷汁」の具に。


この料理は夏場の季節限定。しかも予約しとかんと食えん。なんとなれば、伊勢の漁師から直接仕入れとるんで……。

今日は久々に故郷の味に接し、至極ハッピーな夕食に。

ウ、ウ、またしても○亭の手練に嵌められたかな!?

待てよ、肝心の「冷汁」の写真撮んの忘れとった(アチャー)。

ええい、もう一回つくってもらうとすっか(ブログを口実に)


ニャンコに変身した庵主。


追伸
庵主の立ってのリクエストに応え、9月4日、再度つくってもらった『冷汁』の写真をアップ。

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テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

絵馬と龍神の話(Ver.2)

夏越祭の見物ついでに、八坂神社の境内をブラブラと散策中、絵馬堂が目に!。

ここの高床式の絵馬堂(写真)は三間×七間と規模が大きく、全国的にも有数。だが、奉納された絵馬は未公開なのが惜しまれる。


▼八坂神社の巨大な入母屋造りの絵馬堂。西楼門をくぐった左手、疫神社の北側にある。

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▼坂田藤十郎襲名披露記念として奉納された絵馬(平成17年)。奉納者は三代目中村鴈次郎。

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▼皇太子殿下(現平成天皇)訪欧の安泰を祈って奉納された大きな「祇園」印面の絵馬。この印押したら、字が裏返しになるな(笑い)。

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今回のテーマは、「絵馬」でやんす。

絵馬ちゅうのは、『広辞苑』によると、「祈願または報謝のため社寺に奉納する絵入りの額や板絵」とある。たいていは、上部が屋根の形につくられ、横長の五角形だ。

絵馬の起源については、古くは祈雨、止雨にあたって神様に生き馬を奉納していたのが、平安時代になって板に馬の絵を描いたもので代用したというのが通説。

しかし、奈良時代の都であった平城京跡では「絵馬」の実物が出土している。これは、「生き馬に代えて絵馬が描かれるようになった」という通説に疑問を投げかける。
つまり、生き馬から絵馬へという単純な置換図式は俄かには信じがたくなった。絵馬の起源については、別の説明が必要となってきた(ここではそれに深入りしない)。


では、なぜ祈雨、止雨の祈願に馬が深くかかわっているのだろうか?

史書をひも解くと、奈良時代には祈雨(旱時の雨乞い)、止雨(長雨時)の祈願に際して丹生(にう)川上神社(奈良県吉野郡)に朝廷から奉幣使を遣わし幣帛や生き馬を奉納した。これは明らかに国家的祭祀である。
生きた奉納馬は、水神への犠牲(いけにえ)であり、神に捧げるため殺された。

平安時代になると、丹生川上神社への奉幣は続いたが、しだいに洛北の貴布禰(貴船)神社がとってかわる(『続日本紀』)。賀茂川の水源にあたる近場で済ませたのだろう。

しかも祈雨には「黒馬」、止雨には「白(あお)馬」と相場が決まっていた。これは、『続日本紀』の次の記事からうかがえる。

「廃帝(淳仁天皇)の天平宝字七年五月、幣を畿内の群神に奉る。丹生河上神には黒毛の馬を加う。旱(ひでり)なればなり。」

「光仁天皇の宝亀六年九月、使を遣わして白馬及び幣を丹生の川上、畿内の群神に奉る。霖雨(長雨)なればなり。」

丹生川上神社の祭神は高龗(雨の下に龍)神、貴布禰(貴船)神社のそれは闇龗神で、あまり聞きなれない神名だ。神武天皇林羅山は『神書鈔』を引き、いずれも龍神の類とする(林道春『本朝神社考』)。

ずいぶん前に、丹生川上神社を訪問する機会があったが、もとあった社地はダム建設予定地で水没するため、移転した真新しい社殿が山の中腹にへばりつくように建っていた。霊験あらたかな丹生川上の龍神が鎮座する地に、よりによってダムを造るとは建設省・奈良県も神を畏れぬ仕業としか考えようがない。

完成したダムは、欠陥が指摘され問題となった。これはきっと神罰にちがいない。
なお水没にさきだち、社地の事前調査がおこなわれ、縄文時代の遺跡が見つかったという。たびたび国家的祭祀がおこなわれた場所なのに、祭祀に伴う遺構は報告されていない。


それでは、祈雨、止雨に際してなぜ馬を奉納するのか?

中国周の穆天子が牛・馬・豚・羊を沈めて河伯(水神)に犠牲として捧げた記事がみえる。また漢代に黄河の堤が決壊しそうになったとき、地方官が白馬を沈めて河伯を祀ったという。これらの記事から、洪水を防ぐうえで犠牲獣として白馬を水神に捧げたことがわかる。

また晋の明帝の時、河伯が夢にあらわれ、その請いにより馬を川に投げ入れて河伯に奉じた故事がある。河水を司る河伯の正体は龍(虬竜;みずち)であり、その龍神が馬を欲したことがうかがえる。龍神が怒ったとき雨を生じるという話しを聞いたことがある。

雨乞い、止雨の際、水神に馬を供犠として捧げる祭祀が、いつころ日本に伝わったのか定かでない。馬は古墳時代中期には日本列島に移入された。同後期になると、馬を古墳の周濠に殉葬した事例も報告されている。しかし、雨乞い、止雨の犠牲獣とした形跡は明瞭でない。


時代は移りに移って、絵馬は本来の役割(祈雨、止雨の祈願)を変じ、神社に個人的な願をかけるときや、願が成就したときに奉納する行為に変質した。いまでは、規格化された五角形の小さな絵馬板に各社に由緒のある祭神、神社や十二支などを図案にした絵が印刷され、それを社務所で買い願文を書いて奉納する形式に変じた。
遠からず、インターネット絵馬が現われることにでもなるのだろうか……。

およそ1300年間続いた日本の伝統文化のひとつが、いま危機に瀕していると考えるのは庵主ひとりか……。





▼本殿の脇にある絵馬掛け。

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▼境内摂社の美御前社をあしらった絵馬。市杵島比売(イチキシマヒメ)の絵がなんとも艶っぽい。この女神は、タゴリヒメ、タギツヒメとともに厳島神社の祭神として知られ、平氏の崇拝が篤かった。

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▼美御前社(本殿の東側にある)。アマテラスとスサノオの誓約でスサノオの十拳剣から生まれた宗像三女神を祀る。なかでも市杵島比売(イチキシマヒメ)は美人の声名が高く、「弁天(弁財天)」として平安時代以降、篤い尊崇をうけた。ここに詣でると美人になるという。美人願望の方は、是非ご参詣を!

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▼大国主(オオクニヌ)命が因幡の白兎を救った場面を描いた絵馬。大国主命は『古事記』では祭神のスサノオノミコトの六世の孫とされる。

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▼寅年にちなんでトラをあしらった開運の絵馬。顔がネコに似て、かわゆーい。

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▼12月大晦日の「おけら詣り」を材材にした絵馬。

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