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鴨川べりにも秋の気配

9月27日。日昼外を歩いていると汗ばむ陽気だったが、日没頃になると気温の低下が激しい。

今日は府立大学病院での2ヵ月に一度の定期検診日。

診察を終え、近くの府立文化会館で開催中の京水会の第39回「丹青展」をのぞく。60~70代の脂の乗った画家たちが描いた油絵、水彩画がギャラリーの壁を飾る。なかなかの逸品ぞろいだが、冒険心が…。


帰り際、会館中庭でフジバカマ(藤袴)原生種の鉢植えを見つけた。背丈が約1mあり、夏の終わりから秋口にかけて開花し、秋の七草の一つにも数えられる。誰が名付けたか、センスを感じさせる。

僅かにピンクがかった白く小さな花が密生し遠目には綿を載せたようだ。『源氏物語』にも登場するが、近年、絶滅が危ぶまれKBS(近畿放送)が保護・増殖キャンペーンを展開中だ。

このキャンペーンが功を奏したか、市内各地の寺院などで散見されるようになった。

ほのかな芳香を発し、「蘭」「蘭草」とも称される。

植物も放っておくと、種が絶えてしまう。ずいぶん以前に本ブログで取り上げたセンノウ(仙翁)も絶滅危惧種だ。



荒神口から荒神橋に出、橋のたもとにある喫茶「リバーバンク」で暑さを避け喉を潤しながら、広いガラス窓越しに鴨川の清流と街並に目を遣る。

庵主の学生時代には、一種独特の雰囲気をもち、人情味にあふれたユニークな喫茶店がたくさんあったものだが、いまは壊滅寸前(トホホ)。

その一方で、マックド同様、安っぽいアメリカ文明の象徴であるスタバが店舗を拡大。あんなもん、ニワトリのブロイラー並みに日本人の口にコーヒーを流し込むだけで、真の喫茶店と言えるか!!


京都の伝統的な喫茶店、どこの店の経営者も後期高齢者に近づき、これまた絶滅危惧業界種だ。昔は粋な若旦那衆や学生たちがたむろし京都の喫茶文化を担ったものだが、それとて今や昔の話となってしもうた。これも時流というものか(ホロリ)。



陽もやや傾きかけたころ、喫茶店を抜け出し、荒神橋から賀茂大橋(出町)の鴨川右岸の広い河川敷を上流側に向かい遊歩。ケヤキ、二レ、サクラ、カシ、エノキ、クスノキなどの巨木が日陰を提供し、川面が心地よい風をつくりだす。散策、瞑想するには格好の場所だ。

この辺りからは、後白河法皇が手を焼いた比叡山と鴨川の流れがセットで堪能できる。

ここの河川敷ときたら、ジョギングや散策するひと、木陰のベンチで読書するひと、川の飛び石でたわむれる高校生たち、ベンチで惰眠を貪るひと、芝生で寝転がる恋人同士、ギターや尺八など楽器の練習をするひとがいて、まさに市民の憩いの場所だ。

荒巻前知事が、災害時の広域避難地域を兼ね、府立鴨川自然公園と銘打って芝生や植栽を整備したおかげだ。


800年前に鴨長明が「鴨の流れは絶えずして、もとの水に非ず」(『方丈記』)と詠んだように、鴨川の清流だけは幾千年の時の流れを経ても絶えることはない。

『方丈記』なくして鴨川の名声はなかったに違いない。川の流れにも千年の歴史が息づいとる。




▼京都府立文化会館中庭のフジバカマ(藤袴)原生種。

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▼フジバカマのup。

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▼荒神橋西袂の喫茶店「リバーバンク」。建物の外観と暖簾がちぐはぐな感じが。

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▼静寂な喫茶店内。なぜか信楽の開運タヌキが鎮座!

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▼鴨川辺と東山連峰(荒神橋付近から下流を臨む)。

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▼喫茶店の外で見つけた淡いピンク色したキョウチクトウ(夾竹桃)の花。濃緑の葉がみずみずしい。

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▼鴨川と比叡山(荒神橋付近から)。飛び石があり、高校生たちがたわむれている。

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▼賀茂大橋と北山連峰。黒々とした糺の森の彼方に北山の峰々が重畳とし、絵になる風景だ。

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▼鴨川の水辺に咲く一株のクロッカスの花を見つけた。

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▼鴨川中洲のススキ。風にそよぐ穂が秋の訪れを感じさせる。

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▼ピンク色をしたフヨウの花(賀茂大橋付近)。夕方でしぼみかけている。

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▼今出川河原町界隈の日没。ずいぶん日没が早くなった。

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今日は1時間以上もかけて鴨川べりに秋の気配を体感し、いい運動にもなった。

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芙蓉とヒメジョオンの花

草庵の路地に数日前から芙蓉(フヨウ)とヒメジョオン(キク科)が一株ずつ花を結んだ。

1年ぶりに見る花だ。今年も忘れず咲いてくれた。

いずれも丈が1.5mはあり、ノッポの植物だ。ヒメジョオンは通路をふさぐように伸び、通るたびに肩に触れる。


芙蓉は中国が原産地と目され、『源氏物語』や『倭名抄』にもその名が記され、平安時代までには移入されたものらしい。

芙蓉は中国の国花だ。楚々とし、たおやかな花を咲かせる。

かつて蜀の孟俊王は成都のいたるところに芙蓉を植えさせ、開花時には都城全体が芙蓉の花で埋まったという(『花歳時記大百科』)。壮観このうえない光景が現出したことであろう。中国には心優しくも風流な王がいたものだ。

芙蓉の花をモチーフとした植物図案は、唐代の金銀器にも見られる。明代には景徳鎮産の染付大皿に芙蓉の花をデザイン化したものが描かれ、ヨーロッパ諸国に盛んに輸出された。中国人に古くから好まれた花の一つである。

平戸のイギリス商館跡の調査では、景徳鎮産の染付芙蓉手大皿の優品が出土している。明末の戦乱で景徳鎮の窯業が一時的に衰退する前に輸出されたものであろう。

この戦乱による混乱に乗じて染芙蓉手の模倣品を大量生産し輸出したのが日本の伊万里焼である。

日本でもかつて九谷焼(実際は古伊万里焼き)とされた色絵大皿にもこの図案が踏襲され「芙蓉手」として一世を風靡した。


芙蓉の花言葉は「しとやかな恋人」。イメージとしてはピッタリ。



▼芙蓉の花三輪。

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▼芙蓉の花のup。薄く透き通った大きな花弁が立ちあがり、触れたら花弁が落ちそうだ。

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▼ヒメジョオン。手前の小さな赤い花はミズヒキ草。

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▼ヒメジョオンの花。黄色いシベと薄紫の花弁の取り合わせがなんとも言えない。

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▼ヒメジョオンの花と蕾。

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ジャンル : 日記

梨木神社の萩

9月23日は「秋分の日」だ。

今朝方、気温が20℃を下回り、布団を抜け出すのが…。

「暑さ寒さも彼岸まで」と古人はよく言ったものだ。何百世代を重ねた経験というのはバカにできん。

経験も反復検証されれば、れっきとした「科学」だ!。

寒気の到来で、澄みわたった青空がひろがりる。台風の雨で大気中の塵が落とされ北山、東山連峰の稜線がもくっきり!。



18日に開催された梨木(なしのき)神社の有名な「萩祭り」の余韻を愉しみに境内を散策。

今年はさきごろまで気温が高かったせいか、萩の開花が遅れ、まだ一分咲き。

梨木神社は京都御所の東隣、寺町通をはさんで廬山寺の西側にある。「萩の宮」の別称も。




明治18年(1885)、幕末に三代の天皇(光格、仁孝、孝明)に47年間仕え、朝威の回復に努め幕府と対立し一乗寺に閉居させられた三条実萬(さねつむ)を祀り、後にその子実美を合祀した。社地は三条実萬の邸宅跡にあたる。古代にはいざ知らず、近現代になって公家から神格に昇った人物も珍しい。


社地の随所に萩が植栽され、例年9月の第3日曜に「萩祭り」がおこなわれる。今年は野暮用があって祭礼の日には顔を出せなかった。


境内の一角に京都三名水の一つ「染井(そめのい)」があり、いまなお水脈が尽きず、まろやかな味は茶の湯にも重宝されるそうな。この水、鴨川の伏流水か??

好天で3連休の初日とあって、老若男女の参詣が絶えず。しかし、満開には程遠い萩の青々とした葉を見て足早に去る人も。

開花のピークは今月末頃か。いっせいに開花したときは、さぞかし見ものであろう。



▼梨木神社一の鳥居。ブロンズの扁額がかかる。参道の両側に萩の垣が見える。

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▼参道脇の萩。まだ固い蕾だ。枝枝に和歌を詠んだ短冊が下がる。なかなかの名作もある。

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▼俳句。失恋を詠ったものか。

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▼俳句。旧友との信濃旅路で見た萩を詠う。

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▼彼岸花。萩の枝の下に一株、遠慮気味にひっそり咲く。

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▼「染井」の名水を汲みに行列が。容器が大きいので、順番が来るのに時間がかかる。

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▼銅板葺きの舞殿。

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▼深い緑の木立に囲まれた本殿と参詣者。正面の萩だけが開花。

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▼本殿脇の萩の花。ここの萩だけが開花。

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▼本殿脇の萩の花のアップ。薄紫の花が気品をただよわせる。

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参詣後、向かいの廬山寺の庭園に咲くキキョウ(桔梗)の花を愛でに向かうも拝観時間を僅かに過ぎ、涙をのむ。

出直すとするか。

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ジャンル : 日記

上京区寺之内界隈(2)

前回の記事に続く。今回はお寺さんだす。


裏千家茶室「今日庵」の前に、光悦を輩出した「本阿弥家」の菩提寺である叡昌山本法寺(ほんぽうじ、日蓮宗)がある。

寺域は堀川通りを東に入ったところ、茶道資料館の北側に位置。あまり名が知られない寺院だ。


「小川」の名残りに架かる石橋を渡って吸い寄せられるように山門をくぐる。

初め日親上人(日蓮の孫弟子)が永享8年(1436)に開創した寺で、もと三条辺にあったが、天文法華の乱で焼き討ちに遭うも再建され、秀吉の都市整備に伴い天正15年(1587)、この地に移る。

石橋、山門、開山堂、本堂、庫裡、鐘楼、経蔵、多宝塔、唐門、書院などの堂宇が遺存し、建物の多くが京都府有形文化財に指定されている。天明8年(1788)の大火で多くの建物が焼失したが、再建したものがいまに伝わる。なお経蔵だけは焼失を免れた。

長谷川等伯作の「釈迦大涅槃図」(重文)をはじめ多くの寺宝を蔵し、光悦作の庭園「三巴の庭」は有名。


境内にはサクラが植えられ、花見のスポットだ。境内を散策すると、観光客らしい人に遭ったのは一人だけ。不気味なほど閑散としている。


桃山文化を築いた有名な芸術家たちは日蓮宗の信徒だ。それに帰依したのは京都の商人たち。

金では買えない来世の幸福をもとめ、多額の金を寺に喜捨したのであろう。なにかしら人間の本質が垣間見えるようで…。



▼本法寺山門。朱塗りの柱が古さびている。手前に石橋。

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▼山門前の「小川」の跡。川底は刈り込みされた植栽が。

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▼本法寺境内。正面に多宝塔。鳥居は摩利支天(障難を除き利益を与える神)を祀る社。

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▼摩利支天社前の一対の猛々しい石猪。猪は摩利支天の乗り物。

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▼本堂。手前に本阿弥光悦手植えの松。何代目の松か?

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▼開山堂。

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▼唐門。高貴な身分の方が出入りする門。随所に桐紋(皇室の裏紋)が配される。

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▼唐門扉に付けられた「五七桐紋」。

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▼漆喰塗の壁が白々しい経蔵。

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▼経蔵屋根の露盤と宝珠。

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▼小川通りに面した豪壮な商家。光悦や光琳の生家を髣髴させる。二階の天井が低く古い町家様式をとどめる。

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▼重厚な造りの商家。屋根のふくらみに注目。

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日蓮宗の寺、茶室、和菓子屋、茶道具屋が渾然一体となったのが寺之内だ。

人生に疲れたひと、都会の喧騒から逃避したいひと、日本の伝統文化を身近に体感したいひと、そんな人たちには格好の場所かも。

チャラチャラした茶髪の子たちには、此処のよさはわかるまいて(笑)。

タイガーさん、ここ学生時代に行かはりましたっか???


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上京区寺之内界隈(1)

9月22日、上京区の寺之内通界隈を散策。

今出川通から5分も北に歩くと、もう寺之内だ。


上立売通以北、新町通と堀川通に挟まれ寺之内一帯は、西陣とともに中世から近世にかけて「上京文化」が花開いた故地として知られる。

現在なお、表千家、裏千家を中心に日本伝統文化の粋を引き継ぐ。「上京文化」は京都文化を代表し、京都文化は日本の伝統文化の根源をなす。

天正11年(1583)、豊臣秀吉の都市整備でこの地に移転させられた日蓮宗の本山妙顕寺もこの地にある。

桃山文化の絢爛な絵画を描いた尾形光琳、陶工尾形乾山兄弟の菩提所も泉妙院(妙顕寺に東接)の境内の一角にある。

桃山文化の匂いを色濃くとどめる両千家界隈は、500年という時を刻み、しっとりとした独特の雰囲気を醸し出す。

歴史が息づく町とは、こんなところを言うのであろう。



茶道には、茶菓子、茶道具を欠かせず、寺之内にはそうした店も点在する。それらのたたずまいが全体として調和しているところにこの町固有の魅力がある。

今日庵近くの一軒の茶道具屋のショーウインドウの前で、はたと足が止まった。写し(現代陶工の作)ながら、なかなかの出来栄えだ。店内にさまざまな茶道具が垣間見え、思わず暖簾をくぐる。40代くらいの女性が店番をしていて、話しかけると気軽に応じてくれた。商売柄、茶陶に詳しい。粟田口焼(京焼)に話しが及び、しばし談議に花が咲く。

こちとらは中・近世遺跡の発掘で本物にたんと接しているんで、目利きでは負けん(笑)。


寺之内界隈を散策していると、ときおり住人とすれちがう程度で、興ざめの団体観光客とも顔を合わさないのがいい。



▼寺之内通。右手の門は光琳が眠る泉妙院。どんつきは堀川通。

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▼泉妙院の門構え。右端に標柱と案内板が見える。

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▼光琳・乾山菩提所の標柱(泉妙院門脇)。

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▼日蓮宗妙顕寺の山門。金箔の寺号がまぶしい。奥の本堂は修復工事中。

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▼民家の軒先に立つお地蔵さん。大事にされとる。これも京都の街角のあちこちで目にする風物詩だ。

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▼町家風の茶菓子屋(俵屋吉富)。右手の入口の奥に喫茶店がある。

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▼百々橋礎石。いまは埋め立てられてしまった「小川」という川に架かっていた橋脚の巨大な礎石。

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▼千利休居士遺跡「不審庵」(表千家の茶室がある)。城門を思わせるどっしりした門構え。中ふくらみの屋根が独特だ。

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▼寺之内小川上ル界隈の茶道具屋。

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▼粟田口焼(京焼)写しの碗。垣根と白椿の絵付け。

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▼呉須赤絵写しの鉢。青と赤の絵付けが浮き浮きした気分にさせる。

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▼竹笹紋染付水指。やや青みを帯びた釉薬と呉須の発色が美しい。

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▼千宗旦居士遺跡「今日庵」(裏千家の茶室がある)。屋根の勾配と塗り壁の色がユニークだ。邸内の赤松がよく手入れされとる。

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小一時間ほど散策してると、にわかに夕立に襲われ民家の軒下を借り、暫し雨宿り。これもまた風情がある。

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秋を告げる花

9月15日、路地の叢にハギ(萩)の花が一株咲いているのを見っけ。

中秋節も過ぎ、本格的な秋の訪れを告げる季節の花だ。

「秋の七草」の一つにも数えられる。

淡いピンク色した(白い花もある)、たおやかな花。『万葉集』にも詠まれ、古くから日本人に親しまれてきた。

『万葉集』には「芽子」、「波疑」、「波義」の字を充てた。和製漢字の「萩」の字を使うようになったのは平安時代頃になってかららしい(『花歳時記大百科』)。

着物や美術工芸品、挙句は花札(はなふだ)にも描かれ、日本人には馴染みが深い。花言葉は「内気」。

ハギの名をもつ植物は20種類ほどあって同定するのが難しい、とされる。なかでも「宮城野萩」は有名だ。



▼路地に咲くハギの花。雑草が入り乱れとる。ミズヒキの朱の穂花と色を競う。

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▼淡いピンク色したハギの花のアップ。花弁の形が、なんとなく火星人に似とらんかいな。

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▼こっちはコンパクトデジカメで撮影。こっちのほうが原色に近い。

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中国から招いた冉万里客員教授から、10年寝かした高級な「紹興酒」をお土産に頂戴した。

本場の紹興(浙江省)で飲んだ銘柄の中で最高のものを持参したという。

早速、「円亭」に持ち込み…。酒類の持ち込み禁止なれど、日本酒に目のない女将をとっくに懐柔してある(笑)。

包装紙を解くと桐箱入りで、徳利の染付絵柄がなんとも賑(にぎにぎ)々しい。これは空間恐怖症の作例だ(笑)。これでもかと言わんばかりの「酒」の字が…。

脚台付きのグラスに注いで口に含むと、こなれてまろやかな風味がホワーッと腔中にひろがる。喉越しがマイルドだ。これはいい酒だ。

10年ものは、まっこと一味も二味も違う。

アルコール度数は14度と低く、日本酒と変わらない。華北の白酒に比べて度数が低く、日本人の口に合う。



▼十年ものの紹興酒。下膨れのどっしりした器形。蓋はコルク栓。一輪挿しに転用するには、ためらわれる。

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今週は、はからずも弟子筋から名酒の贈り物が次々と落手(ウハウハ)。 

これぞ、教師冥利に尽きるちゅうもの。まことに、ありがとうざ~ます。

テーマ : 日々のつれづれ
ジャンル : 日記

月餅と泡盛

昨夜は十六夜の月。

中秋の名月の一昨夜は雲が多く、中天にかかる頃は雲の間からときおり顔をのぞかせたが、昨夜は雲も少なく晃晃とした名月が街を照らす。


愛読者のひとりからの「径7cmの月餅をパクつく写真を」という、たってのリクエストにこたえて、急遽撮影のモデル(?)を探す羽目に。

近くに住んでる愛弟子にメールすっと、すんなりOK。

陽が落ちるのを待って、例の「円亭」に推参。

先週末、この愛弟子たち沖縄に遊びに出かけ、手土産に本場の「泡盛」2本を持参。殊勝な弟子たちじゃわい!!

女将にお土産の銘柄「神泉」の封を切らせ、早速、試飲すっことに。

この泡盛、五年もので、30度ながら舌に乗せるとまろやかな味だ。これはいける。

杯を繁く重ねると酔っぱらってしまいそうで、小さなグラスでチョビ、チョビ、ククーッ。

もう一本は、封を切らずに持ち帰り。次回の宴会用に温存すっことに。店に預けとったら、女将の胃袋に流れ込み瓶だけ残る恐れも…。

話しに興が乗り、気づいたら店仕舞の10時。

連れは女将手作りの「サンマ寿司」を手土産に帰宅の途に。



▼東山連峰から昇る中秋の名月。東山の峰々が黒いシルエットに。

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▼李先生お土産の「北京稲香村提奨月餅」。

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▼月餅いただきま~す。思わず笑みが。「稲香村提奨」の刻印が。

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▼月餅の中身。表皮はモサッとし、中にクルミをはじめナッツ類が詰まっとる。これまで何種類か賞味したが、味は最高だ。李先生、ありがとうざ~ます。

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▼愛弟子が店へのお土産に買ってきた泡盛「神泉」。

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▼沖縄の唐獅子。これお土産に非ず。泡盛の写真撮ってたら、大将がどっかから持ち出して来よった。

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いずれもお土産の泡盛と月餅の取り合わせ、なんかしっくりこない感じあっけど…。

ミオちゃん、ちゃんと一つ残してますよっ!(フフ)。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

仲秋の名月と月餅

今日9月12日は、陰暦の8月15日にあたり、二十四節季のひとつ中秋(仲秋)節だ。

中国では、上流階級の間で古くから庭に月餅や瓜などを供え、中秋の満月を観賞する風習があった。唐代(618~907)になると民間にも広く流布したらしい。



1972年、湖南省長沙市東郊の馬王堆1号墓(紀元前2世紀初め)から出土した帛(絹)画には、三日月の上に両足を踏ん張った蟾蜍(せんじょ;ヒキガエル)と兎(ウサギ)が描かれている。蟾蜍は月の異称でもある。


▼馬王堆1号漢墓の帛画(部分)。右上には太陽の中にカラス、左上に三日月と蟾蜍・兎を描く。

馬王堆1号漢墓の帛画_convert_20110913180042(『長沙馬王堆二、三号漢墓』より)。(クリックすっと,画像が拡大)



日本では、兎が竪杵で餅を撞いている月のイメージが定着しているが、撞いているのは餅ではなく不老長寿の仙薬だ。兎が仙薬をつくるモチーフは唐代になって顕著になる。唐代に製作された「月宮鏡」がそれをよく物語る。


▼月宮鏡の拓本。浙江省山県出土。月桂樹の左に杵をもち仙薬をつくる兎、右に仙女(「嫦娥(じょが)」)と跳躍する蟾蜍が描かれる。樹幹には仙薬らしきものが掛かる。円鏡は満月をあらわし、ここに描かれた情景は、まさに仙界の月宮である。

月宮鏡_convert_20110913171449(『中国銅鏡図典』による)



いつしか仙薬が餅にすり替えられ、月餅は中国古来の神仙思想すなわち多くの皇帝(始皇帝や前漢の武帝は有名)がハマった「不老長寿」の仙薬の代用ということになろうか。

2000年前からの願望がなお現代中国人の心を呪縛しているというのも面白い。


10年ほど前、河北省の泥河湾盆地を訪れた折、小麦粉を練ってクルミの実を入れた鏡餅ほどの巨大な月餅が円卓の中央に運ばれ、人数で等分して食べた記憶がある。丸い月餅は、家族をはじめ友人間の円満の象徴として珍重された。


韓国でも、中秋は「秋夕」と称され、前後の数日は休日となり、田舎の先祖の墓前に参集し祖先の祭儀がおこなわれる。この時期、高速道・一般道は帰省客の車で大渋滞となる。

日本では中秋節がいつ頃からおこなわれるようになったのかは定かでないが、遣唐使がこの風習を長安・洛陽で見聞しわが国に伝えた可能性が高い。

庵主が幼少のみぎり、中秋の日に縁側の案(小さな机)の上に団子やススキ、農作物などを供える風習が残っていた記憶がある。それも今では廃れてしもうた。



今年は、東山三十六峰から昇る中秋の名月を撮影すべく満を持して出かけることに。

午後3時過ぎ、親友の李先生から携帯にコール、本場中国の「月餅」をお土産に買ってきたという。「多々謝々」。有難く頂戴することに(ウハウハ)。

この「北京稲香村提奨月餅」(北京稲香村会社推奨の月餅の意か)、北京ではなかなか有名らしい(庵主は知らんけど)。

製造元は北京稲香村食品有限責任公司とある。「責任」という語がわざわざ付されているのがいかにも中国的だ(笑)。

直径7cm、厚さ1.5cmくらいのアンコ入りの月餅が6個入っとる。

ウウッ、6個入りか…。滅多なところには持っていけん! 食いそびれたひとから恨みを買いそう。なんしろ、食い物の恨みだけは恐ろしいからな、まっこと。特に女性にこの傾向が…(ウフッ)。

そういえば、去年も北京のお土産に月餅もらった。なんと律儀な先生だ(ホロリ)。「朋友」って、こういう人を言うんだろうって(笑)。やはり、持つべきは友なり!


▼「北京稲香村提奨月餅」。

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京都府の月の出の時刻(17:45)を調べ、カメラバッグを提げ鴨川の河川敷に繰り出す。

東山連峰に昇る満月をショットするには絶好のポイントだ。

西の空を見上げると、暗雲が立ち込め、降雨が懸念される。東山の上空だけは、幸運にも雲が薄い。

月の出時刻になっても、なかなか月が姿を現わさず、やきもきさせる。

18:00を回ってやっと頭をのぞかせた。お月さん、妙に白っぽく、背景の空に溶け込みそう。

ISO感度や露出補正を何度も試み、やっと金色に輝く満月をショット。満月の撮影というのは思ったより難しいもんだ(汗)。




▼夕闇せまる鴨川。左端は比叡山。右端に大文字山。

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▼欄干に灯がともった賀茂大橋。満月の撮影ポイント。

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▼東山の山際に満月の頭が僅かにのぞく。ええぃ、手前の電柱が目ざわりだわい。空の部分をよく見ると、月を中心に同心円状の淡い輪がいくつも写っとる!!??。これはミラクル・ショットだ。

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▼全貌を現した満月。右手に大文字山。その上空に青空が。

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▼400mmズームレンズの焦点距離を最大にしてショット。月が最も大きく見えるほどよい高さだ。黄金色に輝く月面。兎さん、どこに?

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▼さらに昇ると、筋雲がかかり、木星のような月になってもた。

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中秋を過ぎると、季節は晩秋となる。今年の紅葉、どこで愉しむとするか。

それよりも今年の紅葉の発色が気がかりだ。昼間暑く、夜冷え込む気候が美しい紅葉を生む。

いまのところ、今年は大いに期待できそうだ。


花鳥風月にだんだんのめり込む庵主

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ジャンル : 日記

路地の草花

夏から秋への季節の変わり目で、花を咲かせる植物が意外と少ない。

野花の宝庫である路地の叢で、ピンク色をした米粒大の可憐な花を見つけた。

ミズヒキだ。図鑑には秋の花とされる。

祝儀袋の装飾に使われる赤と白糸のわっかの「水引(みずひき)」に因んで名づけられたらしい。

命名が実にユニークだ。庵主には、そこまで想像力が湧かん(汗)。

山野に生える植物で、屋敷周りにあるのも珍しい。草丈50~80センチ。花は直径5mmほどだ。マクロレンズで最短距離まで接近して撮影し、パソコン画面上で拡大してやっと花の細部がわかる。

これぞミクロの世界だ。

それにしても、なんとも可憐な花だ。

路地裏に目立たず咲くこの花、うっかり見過ごしてしまいそう。

目立たずとも、時間とともに内に秘めた優しさや才能がジワーッと滲み出てくるような人っているもんだ。

庵主の周囲にも少しは…???。 あとで確認の問い合わせが殺到しそう(笑)。

それにしても、世の中に伯楽が少のうなってしもうた。植物を見る眼だって同じじゃわい。

ただし、逆のケースも無きにしもあらず(笑)。アカン、アブナイ話しになってきよった(汗、汗)。

わが弟子どもよ、よくよく肝に銘じておきなはれ。



▼ミズヒキの蕾?。

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▼ミズヒキの花。

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▼ナンテンの枝にまとわりついた珍しいヌバタマの花。『万葉集』にも登場し、「黒い」「夜」にかける枕詞「ぬばたまの…」として使われた。

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▼植木屋が草をむしり取った後に草庵の庭を覆い尽くした植物。なんじゃこれ?。さては内緒で種でも蒔いていきよったか…!?。

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大阪のTさん、ネコのリクエストに応えられず、スンマセン。

まだ暑いんで、涼しい床下から出て来よらん。あるいは土間で大の字になってふて寝しとるんかも…。

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ジャンル : 日記

上賀茂社の烏相撲

今日九月九日は重陽の節句。陰陽五行思想にもとづき、九という陽がふたつ並ぶので重陽という。

古来、菊の花を浮かべた菊酒を飲み、長寿を祈る習わしがあった。菊の花は万花のうち年の最後に咲くことから、長寿の霊が宿ると考えられていたらしい(荒垣秀雄編『四季の博物誌』)。

いまではその風習も廃れてもた。まさに伝統文化の消滅だ(涙)。


京都市北区に鎮座する上賀茂神社では、この重陽の節句に「烏相撲」という奇妙な神事が伝えられる。これまで一度も実見したことがなく、にわかに生来の好奇心というか野次馬根性というか、その両方が頭をもたげ、草庵を飛び出す(汗)。

午前10時から儀式が始まる。陽が射していたのが、式が始まる頃には北山に近いせいか雲が空を覆い、絶好の撮影日和となった。それにしても蒸し暑い。本宮での儀式を待っている間、拭っても拭っても汗が噴き出す。

この神事、あまり知られていないせいか、観客動員数は葵祭にはとてもおよばない。暇を持て余した年配のカメラ小僧が雲集。



ここで、例によって上賀茂神社の由緒をひとくだり。

上賀茂神社は下鴨神社とともに「葵祭」で有名だ。

京都盆地の北端、山頂に磐座(いわくら)がある神山の麓に位置する。祭神は賀茂別雷神(ワケノイカヅチノ神)で賀茂別雷社ともよばれる。この神は、カモノミオヤツノ神(賀茂御祖神)の娘のタマヨリヒメ(玉依比売)が瀬見の小川で拾った丹塗りの矢を持ち帰って床辺に挿し置いていたところ孕んで生まれたという伝承がある(『山城国風土記逸文』)。「丹塗り矢妊娠譚」としてよく知られている話しだ。


賀茂御祖神が神々を集め七日七夜におよぶ酒宴を開いたとき、酒杯をささげ、その子(賀茂別雷神)に「汝の父親と思う人に、この酒を飲ませよ」と言ったところ、酒杯をささげ天に向かって祭をなし、屋根の甍を分け破って天に昇ったとされる(『山城国風土記逸文』)。なんともすさまじい神だ。


これが上賀茂社の主祭神として祀る賀茂別雷神である。雷(農耕に不可欠な雨をもたらす)から連想されるように、この神はれっきとした農耕神としての性格をもつ。


賀茂氏の祖は、神武天皇の大和入りの道案内をつとめたヤタガラスとされ、はじめ大和の葛城に居を構えていたのが、南山城岡田の賀茂に移り住み、さらに木津川をくだり鴨川をさかのぼって京都盆地に定住したという伝承をもつ。賀茂氏というのは、記紀神話によればカラスをトーテムとした氏族なのだ。動・植物を始祖伝承にもつ氏族が日本ではほとんど見られないなかで、賀茂氏はきわめて特異な存在といえる。


上賀茂社の「烏相撲」神事は、祖先神であるヤタガラスを顕彰する祖先崇拝儀礼が相撲と融合していまに伝えられたものであろう。


しかし、なぜ相撲と結びついたのか???。

神事の相撲を見ていると、その謎が解けてきたような…。子供たちが演じる力士は10人ずつ東西の二組に分かれ、勝敗を競う。一対の組を争わせ吉凶、事の成否・成就を占うのは、豊饒予祝行事としてその年の豊作を占う神事にもみられる。鞍馬の「竹伐り会」もその一例。

相撲というのは、いまでは大相撲が国技に列されスポーツまがいの興業(娯楽)であるが、古代においてはそうではなかった。

相撲で四股(しこ)を踏む行為は、もとはといえば地霊を呼び覚まし、そのパワーをわが身に憑依させる呪術的行為に根ざすものであった。これは北方遊牧民(モンゴル族)の中に源流をたどれる。北朝鮮にある高句麗時代の角抵塚古墳の壁画にある力士の図像はあまりにも有名だ。この高句麗は遊牧民である扶余族の末裔だ。

相撲は日本列島に伝って、農耕儀礼と結びついて本来の姿から変質したものらしい。

おそらく、相撲が地霊のパワーを農作物の生育・豊饒に転化させる組み換えに転化したのであろう。

してみると、上賀茂社の「烏相撲」神事は祖先神崇拝儀式と農耕儀礼が習合したものとみなせようか。



北方遊牧民と上賀茂社との関係を物語る興味深いエピソードを紹介する。

郷土史家の故坂東善平氏は、かつて上賀茂社の境内から1点のカットガラスの破片(切子碗)を発見した。それは正倉院に伝わる有名な切子碗や大阪の欽明天皇陵陪塚出土と伝えられる切子碗と同じ系統の古代ペルシャ産とみられる。

古代ペルシャ産のガラス製容器は、お隣の韓国慶州の新羅王墓(5~6世紀代)や寺院址から少なからず見つかっている。それらはユーラシア大陸北方の草原の道(ステップ・ロード)を旅して朝鮮半島にはるばるもたらされた。日本にもたらされたペルシャ産のガラス容器も、この北方のシルクロードを経て移入したものとみられる。

相撲はこの草原地帯に盤居した遊牧民たちに馴染みのものである。モンゴル族はいまにその伝統を伝える。庵主には、上賀茂社境内から見つかった1点のカットガラス破片が、この神社に伝わる相撲の由来をも物語っているように思えてならない。


祭儀が、時代とともに変質するのは世の常だ。その変質は民族によって異なり、その変質の過程に民族固有の精神が反映されるのは至極当然のことだ。もつれた紐を解きほぐすように解き明かすのも文化史研究が得意とするところだ。




▼御園橋から見た賀茂川上流と北山。右手のビルの奥に上賀茂神社がある。中央奥のお椀を伏せたような山が神山。

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▼山城国一宮「上賀茂社」一の鳥居。

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▼長い参道と広大な境内。流鏑馬にはもってこいのスペースだ。社葬の後方に神山がある。

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▼神馬。二の鳥居の前に飼われている。目がカワユーイ!

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▼神職に導かれ行司、子供力士の登場。アナウンスによれば、子供たちは氏子の少年野球チームの面々とか。

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▼斎王代や儀式関係者の祓い。無事故の祈願か。

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▼黄金の前立て、白い組紐の髪飾りを帯びた美形の斎王代。大役にやや緊張した面持ち。脇にピッタリ付き添うのは父親か?。

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▼桧皮葺八足の朱楼門。この内側が本宮。

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▼本宮での儀式を終えた神職の退出。

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▼稚子二人を従えた斎王代の本宮退出。石段を踏み外さないように気を配りながら。

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▼菊紋をあしらった黄金の櫛。白い組紐の髪飾りのアップ。まさに芸術的な組紐だ。

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▼斎王代の後ろ姿。稚子の後をお茶目な幼女(首から氏子の札を垂らしとる)が手をかざしながら追っていく仕種が面白くもほほえましい。さては斎王代の身内かな???。

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▼細殿に着座する斎王代。細殿の前に一対の円錐形の「立砂」。その手前に土俵がしつらえてある。

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▼左右に分かれた二人の白装束の烏役が立砂の前で「カー、カー、カー」、「コー、コー、コー」と叫びながらカラスが飛び跳ねる所作をする。神事のクライマックスの一つだ。

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▼烏役が弓矢と太刀を立砂に持たせかける。

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▼稚子を従えた斎王代。細殿に着座し烏相撲を見守る。緊張感がほぐれてきたか、笑みがこぼれる。

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▼揃いのハッピを着た土俵の整備役。図柄がモダンでユーモラスだ。

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▼子供力士が立砂の周りを一巡。

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▼十番相撲の立ち合い。時間の関係で三番の取り組みを見て祭場を離れる。

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今日はなかなか面白い神事を見せてもらった。やはり足を運ばねばこれだけは満足できん。この祭事の下手な謎解きを試みたが、真実は奈辺にありや…。


愛読者の皆さん、烏相撲神事、写真で堪能されたかな。

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ジャンル : 日記

歴史が息づく新町界隈

9月6日。 台風が去って2日目、やっと青空が顔を出す。

太陽と青空を目にするのもほぼ1週間ぶりだ。青空っていいもんだ(笑)。湿気もなく爽快だが、照りつける陽射しだけが夏の名残りをとどめる。


今出川通りを下がった新町通りの行きつけの中華料理店「松華園」で昼食後、爽やかな天気に誘われ元図子町界隈をブ~ラブラ。

久しぶりに霊光殿天満宮の境内を覗くと、ネコの子一匹見当たらず、閑静な境内で聞こえるのは、か細いセミの鳴き声だけ。

本殿にお参りし、ふと頭上を見上げると見事な葵御紋が入った金箔の吊り灯篭が。

その側面に以前には気づかなかった「西御丸大奥御寄附」の銘が!!。その横には「天保六乙未年十一月」の銘も。

天保年間(1830~1844)といえば、日本の近海に異国船が出没し、世情が騒然となっていた時期だ。
霊光殿天満宮(祭神は菅原道真)は、元寇の際、天皇が夷敵退散の願文をかけて効験のあったとされる神社だ。また家康の天下取りにもゆかりがある。それにあやかって、徳川将軍に身近な大奥がこの吊り灯篭を寄進したのだろう。

200年前の日本の歴史の一コマがこの灯篭に込められている。


拝殿の前には一対の木製狛犬が鎮座。小ぶりながらも埋め込んだ水晶の目が生気を放つ。向かって左側の狛犬の額の上には大きな一本の角が。作者不明なれど、なかなかの秀作だ。




新町通りから小路を西に入ると、三千家の一つ武者小路千家の「官休庵」がある。家祖の一翁宗守(いちおうそうしゅ)が讃岐藩の茶頭を辞し、寛文7年(1667)にここに茶室を開いたのが官休庵の創始とされる。何度か火事に遭っては再建され、300年余の歴史を刻む。 

今出川通りを下がった元誓願寺通りには、室町幕府の絵師をつとめた狩野元信の邸宅もあった。小路の脇に立つ石碑がその跡地を伝える。



▼今出川通りを下がった新町通り。空の青さを強調したフレーミング。クモの巣のように張られた電線が見苦しい。なんとかならんもんかいな。

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▼霊光殿天満宮の吊り灯篭。中央の四角形をしたものが大奥寄贈品。

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▼同上下面のレリーフになった「三つ葉葵御紋」。言わずと知れた徳川将軍家の家紋。

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▼側面の透かし彫り部位の葵御紋。

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▼「西御丸大奥御寄附」銘。西御丸とは江戸城の西丸で大奥が置かれた場所。

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▼「天保六乙未年十一月」銘。

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▼本殿脇の木製狛犬。口を半開きにし、精悍な顔立ちだ。

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▼1本の角を抱く木製狛犬。歯をむき出し、いまにもとびかかりそう。


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▼武者小路千家前の小路。うっかりすると、民家と見間違い通り過ぎてしまいそう。

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▼「官休庵」の玄関。左下に石柱と説明板が。

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▼路傍の「狩野元信邸址」の石碑。この一帯の旧名を狩野町と呼んだらしい。

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あまり名も知られない路地裏にも、いまなお歴史が脈々と息づく。これぞ京都散策の醍醐味だ。


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T.ド.シャルダンの旧蹟を訪ねる

今回は、ちとハードボイルド・タッチで。

8月27日、戦前・戦中、中国で古生物学・地質学・人類学の研究に従事したフランス人学者ティヤール・ド・シャルダン(1881~1955)の北京ゆかりの地(旧輔仁大学)を訪ねる。

26日の夜、滞在中のホテルに顔見知りの若い中国人研究者が尋ねてきて、話しがシャルダンの中国での活動に及んだ。

この青年、シャルダンの事績については少々心得ていて、輔仁大学のあった場所を知っているというんで、そこへ案内してもらうことに。

それは北海公園西側の恭王府の直ぐ近くにあった。

シャルダンは、カトリック(イエズス会派)の神父でもあり思想家としても知られている。しかし、高名を馳せたのは死後に彼の著作が刊行されて以降のことである。その研究人生の大半を解放前の中国で過ごし、ほぼ中国全土をエネルギッシュに踏査した。

1923年に地質古物学研究のフィールドとして初めて中国の地を踏み、1929年に中国地質調査所の科学顧問に任命され、水洞溝遺跡や周口店遺跡の発掘、泥河湾・オルドス砂漠での調査、アメリカのシトロエン探検隊の中央アジア調査に加わるなど、精力的に活動した。第二次世界大戦中も日本軍政下の北京で研究に専心し、1946年フランスに帰還した。

庵主がシャルダンに興味をもつのは、訪れた遺跡が水洞溝遺跡・周口店遺跡・泥河湾と奇妙に共通する点である。なにかしら、見えない糸に引き寄せられるような運命を…。



繧キ繝」繝ォ繝?繝ウ_convert_20110904075049(シャルダン肖像;『現象としての人間』より)



科学と信仰を統合するユニークというか奇抜な思想は、彼の死後、遺稿が発表されると欧米諸国のさまざまな階層の人々の間でセンセーショナルな反響を呼び、大きな論争を巻き起こした。わが国でも『ティヤール・ド・シャルダン著作集』10巻(みすず書房)が刊行されている。

人類進化に対する特異な思想は教会から排斥され、祖国フランスからも遠ざけられアメリカで失意のうちに74年の生涯を終える。

ミッション系の旧輔仁大学(1925年公教大学として創立、1927年輔仁大学と改称)は解放後、北京師範大学に名を変えているものの、創立当初の校舎はそのまま使われている。

建物は、石造りの堂々としたもので屋根に瑠璃瓦を葺き、中欧折衷の建築様式を見せる。

残念ながら、シャルダンの仕事場となった建物は、大学関係者に訊ねても要領をえなかった。

北京で幽閉状態に置かれながら宇宙・人類の進化について思索を書き綴り、第二次大戦中の祖国フランスと家族・友人たちの消息をさぐる数多の手紙を出し続けたのがこの地であったのは間違いない。


現在なお、フランスが中国の旧石器考古学で一定の影響力をもつのは、この地で研究を進めたエミール・リサン、シャルダンらの先駆的な研究実績に負っている。世界遺産北京原人遺跡にはシャルダンの肖像が架かる。



▼恭王府入口。恭王とは清朝最後の皇帝(ラスト・エンペラー)を支えた皇族出身の重臣で権勢を誇った。

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▼広壮な恭王府邸。中国人観光客でごったがえす。胡洞(フートン)の名所だ。

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▼涼しげなイチョウ(銀杏)とエンジュのトンネル(恭王府付近)。

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▼表通りから姿を消した輪タクが胡洞地区に。中国的でなかなかいい。

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▼堂々とした旧輔仁大学正面入口。「輔仁大学校友会」の看板がかつての校地を物語る。

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▼入口横の大理石彫刻。

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▼旧輔仁大学の石造りの校舎。

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▼中流市民が昼食を摂るレストランで食事。家族連れで賑わう。一つのテーブルを大家族で囲む。

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