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京菓子一口メモ

京菓子処<鼓月>の生菓子「かつら川鮎」がオヤツに。

贈答に洋菓子・ケーキが氾濫する中、京菓子とは近頃珍しい。

京都は名うての菓子処。旧市街地に行くと和菓子の店がそこら中に氾濫しとる。京都に学生として住みはじめたとき、菓子屋が魚屋や八百屋の数ほどあるのにカルチャーショックを受けた。

京都人は朝な夕なに菓子食って生きとんのかと思ったほどだ。それほど需要があってのことだと気づいたのは、数年たってからのこと。。


これまた都の雅な伝統に培われ、口さがない京童の口利きの舌に揉まれとる。


この機に、京菓子の歴史を講釈することに。菓子の歴史は古い。

縄文時代の岐阜県内の遺跡で、堅果類の実を粉にして練り上げたクッキー状の遺物が出土している。これぞ日本の菓子の元祖か。


遣唐使により穀物の粉を油で揚げた団喜・饌餅がもたらされ、寺社の祭礼・儀式の供饌菓子として使われた。


菓子が歴史の表舞台に登場するのは室町時代の茶会(茶寄合)だ。茶会には点心としての茶菓が欠かせない。ここに菓子は茶の湯とドッキングして、発達を遂げた。これぞ「茶菓子」という言葉の起源。

利休の茶会には、やきぐり、せんべい、麩の焼き、焼き昆布が見える。意外と質素だ(利休らしい)。


安土桃山時代は日本人にとって、まさに「舌の革命期」であった。南蛮人(ポルトガル人)は日本人の味覚を大きく変えた。文化史上、高く評価すべきだ。

永禄12年、宣教師のフロイスが信長に金平糖入りのフラスコを進上した(『信長公記』)。かの鬼神の権化のような信長が金平糖(こんぺいとう)の粒を含んで相好を崩す姿を連想すっと…。それとも生来甘いものに目がない女房衆にくれてやったか…。


『太閤記』には南蛮伝来の砂糖菓子(かすていら、ぼうろ、かるめひる、あるへいとう、こんぺいとう)を下戸(酒を飲まない人)に振舞った記事がある。他にびすかうと=ビスケットもあった。

「酒が飲めん奴は甘いもんでも食っとけ」という秀吉の捨てゼリフが聞こえてきそうだ。

その秀吉、肥前名護屋城在陣の折、ポルトガル人宣教師の船に招待され南蛮料理を馳走になり、お土産にもらったブランデーを独りチビリチビリやっとったらしい。


お隣の朝鮮でも、この頃(16世紀末)、南蛮貿易で香辛料(トウガラシ)がもたらされ食革命が起こった。
それまで東洋人は香辛料を使わなかった。キムチの歴史はここに胚胎す!

香辛料という一介の植物が、ヨーロッパと東洋を結びつける歴史的役割を担った。味覚が東洋と西洋を一つの世界にしたのだ。

南蛮渡来の菓子も京菓子に取り込む進取性には舌を巻く。京都人、ここんところが一味違う。

菓子が庶民の口に昇るようになったのは経済が発展した江戸中期(18世紀)以降のこと。

この頃から、京菓子の枠組みができあがった。いまなお、店先に「禁裏御用達」の木製看板を掲げる老舗もある。



京都には、菓子屋がわんさかあるが、鼓月も老舗の一つだ。

和紙を連想させるビニール包装に白で水面を表現し、淡味清々「かつら川鮎」の商品名。一風の涼を感じさせる。

原材料は卵、小麦粉、餅粉、水飴、蜂蜜、味醂、寒天など16種も。

このこだわりが京菓子の身上だ。

口にすると、昔懐かしい味が…。甘みを抑えた寒天入り白アンを軟らかい小麦粉で包んだ食感。



▼1尾ずつの包装。

DSC_6644_convert_20110806150103.jpg
(クリックすっと、画像が拡大)



▼「かつら川鮎」の中身。

DSC_6649_convert_20110806145823.jpg


食べ物の歴史は広くまた深い。

生菓子の記事を書いていて、にわかに「冷やし葛餅」が食べとうなった。暑い季節柄、キナコにまぶして食べる喉越しがなんとも言えん。


夏バテ回避に汲々する庵主


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ジャンル : 日記

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